前向きな老後 佐藤愛子さんの理想は、老いた肉体の赴くままに

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   女性セブン(1月16-23日号)の「毎日が天中殺」で、佐藤愛子さんが「前向きな老後」を論じている。御年96。ひとつ上の瀬戸内寂聴さんと並ぶ文壇の最長老である。

   「某週刊誌から電話コメントを求められた」...テーマは老後を前向きに過ごすコツ。佐藤さんは「前向きもヘッタクレもあるかいな」という本音を投げ返すのは失礼と思い、「うーん」と考えるふりをした。なにしろ目も耳も悪く、心臓も思わしくない。血圧は高い、ひざはヘナヘナ。長年の酷使に耐えてきた脳は、もうボロ雑巾のようだという。

「おそらく私のことを元気のいいばあさんだと思ってのことなのだろう。私は声が大きい。これだけ五体ボロ雑巾になろうとしているのに声だけはバカでかい。それによくしゃべる。つまり『口だけ達者』という厄介なエセ元気者なのである」

   佐藤さんは、コメントを求める週刊誌の魂胆を「あいつならいつだって喜んでしゃべると思われて...」と推し量り、マエムキの意味を自問する。

   前向きな老人は周りにもいる。80歳を超えた懇意の古物商は、健康のために早朝マラソンを欠かさない。地下足にハチマキ姿だという。この古物商には同年代の得意客がいて、そちらの目標は死ぬまでに100人の女性と関係を持つこと(原文は別表現)らしい。

「老人の前向きは往々にして、はた迷惑ということになりかねない...」
  • 誰もがいずれ経験する「老」
    誰もがいずれ経験する「老」
  • 誰もがいずれ経験する「老」

待つともなしに待つ

「私が理想とする老後のありようは『前向き』なんぞではない。小春日和の縁側で猫の蚤を取りながら、コックリコックリ居眠りし...というような日を送りつつ、死ぬ時が来るのを待つともなしに待っている」

   その「待つともなしに待つ」という境地が、佐藤さんの理想なのだという。目がかすみ、耳が遠くなるのもよし。食欲がなければないでいい。

「いみじくも良寛禅師はいっている。〈災難に遭う時には災難に逢うがよく候。死ぬ時が来れば死ぬがよく候〉 この境地こそ、私が憧れる老後である。前向き、後向き、どうだっていい。老いた身体が向いている正面を向いていればいい」

   そして、老体の正面にあるのは死の扉だ、と続く。向こう側には何があるのか誰にもわからない。わからぬままに、その扉に向かう。

「扉は開いて私を呑み込み、そして閉じる。音もなく閉じる。それでおしまい。あえていうならば、これが私なりの『前向き姿勢』なのである」

老いの「実況中継」

   3ページの大型エッセイだが、掲載は不定期で〈※気まぐれ連載につき、慌てず急かさず次回をお待ちください〉の注書きがつく。いつ噴き上げるか知れない言葉の間歇泉だ。

   2016年発刊の「九十歳。何がめでたい」で話題になった佐藤さん。あのベストセラーも女性セブンの連載(1年間)をまとめたものだった。続編にあたる「毎日が天中殺」も同じ勢いで、ユーモアたっぷりに自身の衰えを突き放す筆致である。誰もがいずれ経験する「老」は国民的な関心事であるが、プロの表現でそれを「実況中継」してくれる90代はそんなにいない。しかも、こと文章に関する限り、お世辞抜きで佐藤さんに老いは感じない。癖がなく、若い人にも読みやすい文体だと思う。

   思えば、100歳に向かいながら有名誌に連載を持つこと自体、とんでもなく前向きなことではないか。私が週刊誌の編集者だとしても、「前向きな老後」の企画でコメントを取るならまずは彼女だろう。存在自体が前向きなのだ。ところが、ご本人は「べつに老人が前向きに生きなければならないってことはないんじゃないの?」と考える。

   「縁側の猫」の例えにあるように、老いに任せ、歳月に抗わず、むしろ流されていくのが理想だと説く筆者。無理して前を向くなと。長らく前ばかり向いてきた人だけに許された、強く静かな境地なのかもしれない。「死の扉」とやらに、開く気配はまだない。

   こういう人を呑み込むには、扉の側にも覚悟がいる。

冨永 格

冨永格(とみなが・ただし)
コラムニスト。1956年、静岡生まれ。朝日新聞で経済部デスク、ブリュッセル支局長、パリ支局長などを歴任、2007年から6年間「天声人語」を担当した。欧州駐在の特別編集委員を経て退職。朝日カルチャーセンター「文章教室」の監修講師を務める。趣味は料理と街歩き、スポーツカーの運転。6速MTのやんちゃロータス乗り。

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