恩人クララ・シューマンからの助言
話がそれました。ブラームスが自分の才能に自信があり、野心的ではあるが、大変慎重な作曲家であったことは間違いありません。有名な作曲家ではシューベルトかグラズノフぐらいしか書いていない「弦楽五重奏曲」(ヴァイオン2本+ヴィオラ+チェロ2本)という編成の曲を1862年にまず構想したのです。シューベルトの「弦楽五重奏曲」が、「ミニ交響曲」とでもいうべき大規模かつ素晴らしい曲だったので、それに触発されたのかもしれませんが、ブラームスのこの試みは頓挫します。試しに演奏してもらったところ、あまり評判が良くなかったのです。そのためこの作品を世に出す(出版する)ことをスッパリと諦めるのですが、編成を変えて、なんと2台のピアノ・ヴァージョンとして、世に問います。
ブラームスはこの頃から、音楽の都ウィーンに居を移して、活躍の機会をうかがっていました。故郷ハンブルクで、就任を望んでいた指揮者のポストが得られなかったため、音楽家として一段上を目指すには、ウィーンは最適だったのでしょう。そして、ウィーンで知己となったカール・タウジヒというピアニストと2人でこの曲を初演したのでした。
しかし、そこで、恩人でもあり親しい友人でもあるクララ・シューマンなどから、やはりこの曲はピアノと弦楽器の曲であるほうがふさわしい、とのアドヴァイスを受け、ブラームスはついにピアノ五重奏として、完成させるのです。
この曲は、彼が生涯で唯一書き上げた「ピアノ五重奏曲」となりました。やはりピアノ三重奏や四重奏に比べて、特別な編成の曲だったわけです。
第1楽章や、第3楽章はまだ30代の若いブラームスの、ある意味ダークなエネルギーが溢れる一方で・・・これは初期のブラームスに特徴的なカラーなのですが、彼の「若く燃えたぎる野心」が感じられます・・・、第2楽章は、彼ならではの叙情性に満ち、全体としてブラームスの「慎重な天才」ぶりを十分に味わうことのできる傑作となって現代に伝わっています。
前述の2台ピアノ用ヴァージョンも出版されたので、ごくまれに演奏されますが、「ピアノ五重奏曲」の方は、この編成の代表曲として取り上げられることも多く、より親しまれています。
本田聖嗣