車いすテニスは、見る者の闘争本能をかきたてる。
あるテニスプレーヤーは、車いすが倒れながらもボールに食らいつき、すぐに起き上がる姿を見て、淡泊になりがちだったラリーで粘れるようになったと語っていた。
障害者がテニスをしているのではなく、車いすテニスというスポーツがあるのだ。
そんな激しい車いすテニスの先駆者として走り続ける、齋田悟司選手(シグマクシス)。
47歳となった現在も、東京パラリンピック出場に向けたトレーニングと試合の日々を過ごしている。(インタビュアー:石井紘人 @ targma_fbrj)
「アテネで金メダル」表彰式が一番嬉しかった
――齋田選手はパラリンピックに、1996年のアトランタから2016年のリオまで6大会連続出場されています。その中でも特に印象に残っているエピソードを教えてください。
齋田 やはり男子ダブルスで国枝慎吾選手と組んで金メダルを取った、2004年のアテネ大会です。その中でも準決勝ですね。オーストラリアのペアとの対戦だったのですが、一時は相手にマッチポイントを握られ、あと1ポイントで負ける状態になりました。でも、そこから逆転して決勝に進めたのが印象的です。年齢的にも車いすテニス選手のピークである32歳でしたし。
――嬉しかったエピソードはいかがでしょうか。
齋田 アテネ大会の表彰式で金メダルをかけてもらった時が一番です。私は、試合前日の夜は、睡眠薬を飲まないと寝られないんです。体は凄く疲れていて寝たいのですが、次の日の試合について「こうきたら、こうしよう」と考え出すと頭の中がぐるぐる回って、興奮して寝られない。常に緊張の連続です。試合に勝っても、「やっと終わった」とホッとするのが最初の感情です。なので、メダルセレモニー辺りから嬉しさがこみあげてきます。
国枝慎吾選手とは仲良いですか、と聞かれて
――国枝選手とは共にアテネで金メダル、2008年の北京大会と前回のリオ大会でも銅メダルを取っています。年齢やキャリアを重ねるなかで、ダブルスのコンビネーションはどのように成長したのでしょうか。
齋田 彼もここ(千葉県柏市の吉田記念テニス研修センター)のテニスクラブに通っていることもあり、二人でかなり一緒に練習できていました。パートナーが遠方に住んでいたら、なかなか練習できないじゃないですか。そこは私達のアドバンテージだったと感じています。
ダブルスは、パートナーがどういうプレーをしたいかというのを、コミュニケーションをとって把握します。ただ、私達の場合は長く一緒に練習を積めたので、「こうしたいんだな。じゃぁ先に僕はこうしよう」といったプレーができていたと思います。
――「仲良いですか」とか、聞かれたりしますか。
齋田 初めて聞かれました(笑)。年齢も一回り離れていますし、彼が私をどう思っているか分からないですけど、私は好意的に思っていますよ(笑)。でも、仲悪いとダブルスはうまくいかなくなるのではないでしょうか。
――パラリンピックが東京開催に決定した時、特別な思いはありましたか。
齋田 私はアテネパラリンピック以降、大会が終わるまでは次のことを考えず、「この大会が最後だ」という気持ちでプレーしてきました。なので、東京パラリンピックが決まった瞬間に意識したというのはなく、次の大きな大会が東京パラリンピックになった時に実感が強まりました。今は東京大会のことしか考えていません。
――最後に東京パラリンピックへの意気込みをお願い致します。
齋田 自分が頑張るという意味では、場所がどこでも変わらないとは思います。ただ、自分が生きている間にパラリンピックが自国で開催されるのは、一度だけになる。そういった意味で、応援してくれる日本のファンに車いすテニスをアピールできる大きなチャンスですし、適当なプレーを見せてしまえば、つまらないスポーツだと思われてしまう。「車いすで、ここまでできるんだ」というのをお見せしたいですし、個々がイメージする車いすの競技の限界を超えたプレーで魅了したいですね。
齋田悟司(さいだ・さとし)
1972年生まれ、三重県出身。
12歳の時に骨肉腫により左下肢を切断、車いす生活に。1996年のアトランタ大会から6大会連続でパラリンピックに出場。2004年のアテネ大会では国枝慎吾選手と組み男子ダブルスで金メダル、2008年の北京大会では男子ダブルスで銅メダルを獲得した。2016年、自身通算6回目となったリオデジャネイロ大会にて、国枝選手との男子ダブルスにて再び銅メダルを手にした。
2003年には国際テニス連盟(ITF)選出の「世界車いすテニスプレーヤー賞」を日本人選手として初受賞するなど、日本を代表するプレーヤー。