すっかり日本のクラシック界の年末の定番曲となったのが、ベートーヴェンの「交響曲 第9番 合唱付き」いわゆる「第九」です。普段クラシックをあまり聞かない人でも年末の「第九」は聞きにいくという人や、市民の合唱団に参加して、「演奏者として第九を味わう」という人もたくさんいらっしゃいます。CMでもこの時期には「第九」がよく使われるので、曲を知らなくてもなんとなく第4楽章の「喜びの歌」と呼ばれる部分を聞けば、年末気分になる、という方も多いと思います。
これだけ日本に定着した「師走の『第九』」ですが、その習慣がなかった「本国」ドイツでも、年末に演奏されることが多くなってきており、日本の「第九」文化は、国を超えてムーブメントとなってきた、と言えるかもしれません。
全ウィーン市民の2.5%が演奏会に押しかけた
合唱を交響曲の中に取り入れて、より壮大な世界を描く、というベートーヴェンの野心的アイデアは大成功し、「第九」を交響曲、いやクラシック・レパートリーの中でさんぜんと輝く金字塔としたばかりでなく、その後の作曲家たちにも大変な影響を与え、音楽の進化の歴史をまるごと変えてしまいました。まさに「1曲で歴史を変えた」といってもよい、名曲なわけです。
演奏時間も長く、(この「第九」を1曲収めるために、CDが誕生したときに「収録時間74分」という規格が決められたのは有名な話です)当時としては合唱と管弦楽という大きな編成の曲を書き上げるにわたって、ベートーヴェンはなんの準備もしなかったか・・・というと、さすがの彼でもそうではなく、実は、「第九」の習作ともいえる曲を1曲残しています。今日取り上げる「ピアノとオーケストラと独唱と合唱のための幻想曲 Op.80」です。名前が長すぎますし、「幻想曲」だと他の彼の様々な幻想曲と区別がつかないので、よく通称の「合唱幻想曲」という題名で呼ばれています。
「合唱幻想曲」は、1808年12月22日のウィーンのアン・デア・ウィーン劇場における大規模なチャリティーコンサートのために書かれました。この演奏会は、ベートーヴェンの交響曲第5番と第6番、そしてピアノ協奏曲第4番の一般の聴衆に向けた公開初演ともなっていて、総演奏時間は4時間にもなる大規模なものでした。チケットは、当時のウィーンの労働者の1週間分の給料に当たるぐらい高額だったにもかかわらず、客は殺到し、全ウィーン市民の2.5%がこの演奏会に押しかけた、という記録もあります。ベートーヴェンの生涯における「キャリア・ハイライト」であった、と評価されているぐらいです。
「第九」のはるか以前に周到な準備として作曲
そのメモリアルな巨大コンサートの最後に、ベートーヴェンは何か大規模な演目を用意しようと思ったのです。幸い、大規模な演奏会ですから、演奏者はたくさん使えます。彼は、オーケストラと、独唱ソリスト歌手たちと、合唱団にピアノを加え、いままでに見たこともない曲を書こうと奮起します。ピアノを弾くのはもちろんベートーヴェン自身です。そのため、「合唱幻想曲」は、独奏ピアノで始まります。彼のお得意の調・・・「交響曲第5番『運命』」と同じ・・・・であるハ短調で開始し、しばらく暗く、情熱的な感じでピアノ独奏が続きます。その後、静かにオーケストラが入ってきて、ピアノと掛け合いとなり、あたかも「ピアノ協奏曲」の穏やかな第2楽章のような雰囲気になります。次第にハーモニーが短調から長調となり、まずはピアノに、それからフルートやオーボエ、そしてクラリネットに、後年の第九の第4楽章の有名な旋律、いわゆる「喜びの歌」を思い起こさせるハ長調の旋律が登場します。もちろん、我々は「第九」を知っているから「似ている」と思うのですが、もちろん、こちらのほうが最初です。
弦楽器が参加してサウンドが大規模になり、ピアノ協奏曲と見紛うばかりの華やかな掛け合いのパッセージが続き、この後のピアノ協奏曲である「第5番 『皇帝』」にそっくりなパッセージが現れたりと、彼のピアノ協奏曲の作曲技法がいかんなく発揮された後、ピアノの伴奏に乗って、独唱が開始されます。すぐに合唱が参加して「第九」にも通じる、人類愛を歌い上げる壮大な部分に突入します。
クライマックスの後、早くなってフィナーレとなる・・・実は、このあたりのプランニングは「第九」の第4楽章とほとんど同じで、その設計図といっても良いぐらいです。「合唱幻想曲」は全体で18分ほどの曲で、「第九」の第4楽章と比べても規模の小さい曲ですが、まずまちがいなく「第九の最終楽章」は、これの拡大豪華バージョンで、ベートーヴェンが「第九」のはるか以前に周到な準備として、この実験的な曲を作曲していたことはあきらかです。
「先行実験」が「第九」につながった
しかし、残念ながら、「合唱幻想曲」は大評判となったチャリティーコンサートの中では、大失敗でした。おそらく準備不足で、ベートーヴェンのピアノ独奏パートである前半は全くの即興だったようですし(現在演奏されるバージョンは後で改めて作曲されたものです)、いままでなかった編成の曲を全体で練習する時間も少なかったようで、演奏があまり良いものではなかったからでしょう。初演の評判は散々でした。
そして、ピアノ協奏曲と「第九」をあわせたような大編成を用意しないと演奏不可能な曲ですし、それにしては、「第九の下位互換」みたいな内容・・・本当は歌詞の内容も全く異なっているのですが・・・ですから、演奏機会にも恵まれず、ベートーヴェンの作品の中では、どちらかというと「黒歴史」の曲となってしまったのです。
しかし、この曲でいわば「先行実験」を行ったベートーヴェンは、のちに「第九」というEU(欧州連合)の統合の象徴、「欧州の歌」であり、21世紀の日本の年末でも、もっとも演奏されるクラシック「交響曲」の名曲中の名曲を生み出すことになるわけです。
私は、ベートーヴェンはどちらかというと、ひらめき型の「天才」ではなく、積み重ねていく「努力型」の人であると思っていますが、この「合唱幻想曲」の存在も、そんなことを証明してくれるような気がします。そして、「努力型」だったからこそ、音楽家なのに耳が聞こえなくなるという深刻な悲劇を乗り越え、その努力の成果として「第九」のような作品を生み出すことが出来たのです。
「今年も一年よく頑張った」という響きを、日本人は毎年、年末の「第九」の中に聞いているのかもしれません。
本田聖嗣