原曲はニ長調だったがハ長調に
しかしこのちょっとした仕掛けは、バッハが考案したものではまったくないのです。19世紀のドイツ出身のヴァイオリスト、アウグスト・ヴィルヘルミが考えたものです。バッハの原曲はニ長調だったのですが、これをハ長調に移し替える(移調する)と、G線だけで曲全部が弾けることに気づき、おそらく演奏家として「1本の弦だけをつかう」という演奏スタイルがウケる、ということにも気を配ってこのような編曲をしたのだと思われます。
たしかにG線だけで弾ける=すなわち音があまりあちこち飛ばず、比較的狭い音域の音だけで構成されているところからこのような一種「曲芸」のネタにされたわけです。そのため、原曲を知らない人たちによって、「バッハはただ1本の弦で弾くためにこの曲を作った」という誤った説が流布されてしまったのです。同時に、「バッハの『G線上のアリア』」というちょっと違う題名で呼ばれるようになっていきました。
しかし、そんな仕掛けがなかったとしても、そもそも曲がつまらなかったら、ここまでヒットすることにはならなかったと思います。バッハの書いたアリアの旋律は、ゆったりと下降してゆく伴奏型の上に乗って、少し悲しみを湛えたまま、ゆったりと展開してゆきます。誠に典雅な「アリア」となっていて、バッハの才能の偉大さをこの曲だけで味わうことができる・・・それぐらいこの曲が「音楽の力」を持っていたからこそ、と言って良いでしょう。
バッハ自身がそうであったように、この曲も作曲されたあと、歴史の中に一旦埋もれてしまいます。しかし、数世紀もあとになって、「G線だけで弾ける」というギミックを伴って復活したとき、本来の音楽の魅力を発揮して、「原曲より遥かに有名」となる、「バッハ作曲 『G線上のアリア』」が誕生することとなったのです。ちょうどロマン派の作曲家がバッハの作品を「復活上演」して、人々がその魅力に気づき、ちょい古の音楽、すなわち「クラシック音楽」というジャンルが誕生した経緯を思い起こさせます。
余談ですが、私が昔の恩師に聞いたことなのですが、日本の古い楽譜では、原譜のフランス語のアリア、「エール(Air)」という表記を英語と勘違いし、「G線上の空気」という日本語訳がつけられた楽譜も存在していたそうです。極東の国で「空気」という誤訳までつけられるぐらいのメガ・ヒット曲となった「G線上のアリア」を、J.S.バッハはどのような気持ちで天から眺めているかを想像すると、ちょっと楽しくなりますね。
本田聖嗣