週刊文春(11月21日号)の「ツチヤの口車」で、哲学者の土屋賢二さんがスポーツの「新競技」を夢想している。お茶の水女子大学名誉教授という立派な肩書を持ちながら、どこまで冗談か分からない、いや、ほとんど冗談の筆致で書き連ねる長寿コラム。当「遊牧民」の初回で使わせていただいたので、私には思い出深い連載でもある。
今回は、東京五輪のマラソン競技が札幌に移された話から始まる。
「高温でなくても、マラソン自体、苛酷だ。わたしがこんな過酷な競技の日本代表に選ばれたら、重圧と苛酷さで途中棄権するだろう。五十メートル地点で。わたしを代表にしてはいけない理由がそこにある」
相変わらずの土屋節だが、「かこく」の表記が定まらないのも遊びのうちか。
先生、動物にマラソンをやらせたら愛護団体が黙っていないとしたうえで、「マラソンだけではない。相撲、柔道、ボクシング、レスリングなどの格闘技は、ふつうなら確実に暴行罪に問われる競技だ」とつなぐ。そして少しだけ「スポーツの本質」に触れる。
「絶対安全というわけではない。むしろ、危険をかえりみず、身体を張り、命をかける勇気と強さに人々は喝采を送るのだ」
今作、初めての読者が真に受けてもいい部分はたぶんここだけである。
土屋さんは、スポーツの名で許される「非道」を、芸人の熱湯風呂(いじめ→お笑い)や医療行為(傷害や脅迫→治療)に例えて脱線する。「患者を昏睡させ、切り刻み、身体の一部を強奪したり...『これ以上酒を飲むと死にますよ』と脅すなど、普通なら悪事を働いているとしか思えない行為が、治療だと言えば感謝されるのだ」。そこで新競技である。
心身のタフさを試す
「スポーツだと言えば、ほとんどのことが許されるのなら、もっと洗練された競技を考えてはどうだろうか。わたしは以前、新競技の提案をした(五十センチ競走とか...中略)。だが斬新すぎて、一顧だにされなかった」
土屋さんが新たに考えたのは、心身のタフさを同時に競う以下の5種である。
1. 絡まった50mのイヤホンをほどく間、一定ペースで健康な歯を麻酔なしで削る
2. ボクシング中に暗算をし、休憩時間にわんこそばの大食いを競う
3. 5分以内に綱を渡り切らないと、(1)知られては困る秘密を妻にばらす(2)健康保険の負担分が一割増(3)恥ずかしい写真をネットで拡散...の三択を強いられる
4. 400m競争の直後に10分間、顔前のローソクの炎が少しでも揺らぐと失格になる
5. 哲学書(またはツチヤ本)を不眠で読み続けられる時間を競う。
最後の自虐ネタを含め、ファンはあまりの馬鹿馬鹿しさに満足したに違いない。
笑わせるほうが難しい
ユーモア随筆は、実のところ知的な創作活動である。私の経験と実感でも、文だけでは、泣かせるより笑わせるほうが難しい。土屋さんのように、この作まで1121回、毎度のナンセンスで読者を満足させてきた書き手は、もはやフラフラの出がらし状態かと思うのだが、不死身の書き手というのは確かにいる。汲めども尽きぬ冗談の泉である。
長寿連載のコツは、読者との「お約束」をいくつか作り上げることだろう。土屋さんの場合、その一つが奥様の登場である。今回も「ふだん暴力は絶対反対と主張する人が、スポーツでは、何も悪いことをしていない相手を『コテンパンにやっつけろ』と叫ぶ姿を、夫として横で見ていると、暴力を好む本性が透けて見えて慄然とする」という具合だ。
そして最新の話題をまめに取り上げること。今回はマラソンの札幌行きとスポーツの不条理、である。取り上げただけではなく、「すべて純粋な絶対善」と思われがちなスポーツを、あえて天邪鬼に料理する。斜に構えたところが常連読者にはたまらない。
さらには、哲学者という堅い職業の効果である。筆致との落差を生じさせる設定として、大いに成功していると感心する...ん? これはホンモノか。
冨永 格