「反ロシア」リスクを冒してまで
首都サンクト=ペテルブルクの音楽院で、ロシア音楽を牽引した「ロシア5人組」の一人、管弦楽法の大家であるリムスキー=コルサコフに師事したイッポリトフ=イワーノフは、卒業後、当時まだ「チフリス」と呼ばれていたジョージアの首都、トビリシの音楽院の院長と、オーケストラの指揮者として招へいされます。結局、その地に彼は7年間ものあいだ暮らすことになり、ジョージア地域の音楽、すなわち「スラヴ的ではないもの」に魅せられ、自作に取り入れていくことになりました。
指揮者としては、トビリシでチャイコフスキー作品を演奏するなど「ロシアから来た音楽家」でしたが、赴任を終え、1893年にモスクワの音楽院の教授としてロシアに戻ったあとは、すっかりコーカサスの魅力にハマり、民族的なメロディーを自作のモチーフにたびたび取り入れたのでした。モスクワで「コーカサスびいき」というのは、ともすれば「反ロシア」とも取られかねないリスクをはらんでいましたが、そのリスクを冒してでもジョージアへの思いを曲にした彼は、よほどジョージアに魅力を感じていたと言えるでしょう。
オーケストラの組曲、「コーカサスの風景」は、第1組曲が1894年に、そして、第2組曲「イベリア」が1896年に完成されています。第1組曲の4曲目、「サルダールの行進」ばかりが有名で取り上げられますが、第2組曲はコーカサスへの旅、という距離的旅行だけでなく、紀元前への旅、という時間旅行も内包した音楽で、我々を遠い世界にいざなってくれます。
組曲は曲からなり、「第1曲 序奏~ケテヴァナ王女の嘆き」(19世紀初頭、ロシアに併合された時代の王女)、「第2曲 子守歌」、「第3曲 レスギンカ(北コーカサス地方の民族舞踊)」、「第4曲 ジョージア行進曲」という題名がそれぞれ付けられています。師匠リムスキー=コルサコフ譲りの華麗な管弦楽法でもって、苦難の歴史を歩みつつ、誇り高いジョージアの歴史と人々、そして雄大な風景まで感じることのできる、ダイナミックな傑作です。
本田聖嗣