秋は気温も落ち着いてきて、日本は晴天も多く、旅の季節です。最近は気候変動のせいか、暑い夏からすぐ寒い冬になってしまうような感覚に襲われますが、それでも、11月初旬は、紅葉に誘われて旅に出たくなりますね。旅は計画しているときが一番楽しい・・・とよくいわれますが、今日は「行ったことがないのに書いた名曲」を取り上げましょう。
ジャズやポップスやフラメンコやロックでのアレンジでも名高い曲ですが、有名な「3大テノール」のカレーラス、ドミンゴ、故パヴァロッティの3人もレパートリーにしていることでクラシックファンにもよく知られている、アグスティン・ララの「グラナダ」です。
700曲のほとんどが女性とお酒にまつわるものだが
ララは1897年、メキシコ南部の川沿いの街、ベラクルス州トラコパルタンに生まれました。メキシコのいにしえ国名はヌェバ・エスパーニャ、日本から遣欧使節が訪れた頃には「ノビスパン」、つまり新しいスペイン、と呼ばれたスペイン副王領でした。ララの生まれたトラコパルタンはカリブ海の文化と、スペインのコロニアル形式・・つまり植民地形式の混在した街で、彼の名前もスペイン風です。スペインは、両親の名前を受け継いでいくので、本名はどんどん長くなります。例えばマラガ生まれの画家ピカソも、本名は、パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソと長いのですが、ララも、正式な名前はアンヘル・アグスティン・マリア・カルロス・ファウスト・マリアーノ・アルフォンソ・デル・サグラド・コラゾン・デ・ヘスス・ララ・イ・アギーレ・デル・ピーノという大変長いものでした。
つまり、ララは、メキシコ人ですが、宗主国スペインの文化の影響が色濃い中で育ったのです。首都メキシコシティーで育ち、そこで音楽と出会ったララは、10代からピアノ弾きとして、時には怪しげな店でも演奏し、多くの女性と浮名を流しました。生涯に10回も結婚と離婚を繰り返したほどです。作曲家としての処女作も、女性に捧げた行進曲だったようです。彼はほぼ独学の、つまり「現場叩き上げ」の作曲家だったのですが、メキシコで流行していたキューバ発祥のボレロ・・・これもオリジナルはスペインの古典音楽です・・・や、ハイチ発祥のハバネラ、タンゴ、フォックストロット、様々な音楽の形式を自作に取り入れていったのです。
未確認作品を含めると生涯に700曲近く作曲した、といわれるララですが、そのほとんどが女性とお酒にまつわるものでした。しかし、彼が34歳のときに作曲した「グラナダ」は、スペインという「まだ見ぬ国の古都」へのあこがれが強く湧き出た曲だったのです。
生涯最大のヒット曲となった
スペインがイスラム教国になり、その後、レコンキスタによって再びキリスト教化されたときに、最後までイスラムの拠点となったのが南部アンダルシア地方の街グラナダで、世界遺産のアルハンブラ宮殿などで有名です。
ララの「グラナダ」は、現在でも欧州の他の都市とは一線を画すエキゾチズムに溢れたグラナダの街の魅力と、その地の混血の女性の美しさを高らかに歌い上げています。この曲はメキシコだけでなく、本国スペインでも大評判となり、当時のフランコ独裁政権からララはグラナダに壮麗な屋敷を下賜される、という栄誉に浴することにもなりました。オリジナルはオペラチックに歌い上げる「グラナダ」は、今も、世界中の人々に愛聴されています。
以前、悩める米国の作曲家コープランドが、メキシコを訪れてナイトクラブでのメキシコ音楽に感激して書いた名曲「エル・サロン・メヒコ」をご紹介しましたがララの場合は、「まだ見ぬ土地」へのあこがれのほうが、実際にその土地を訪れたときの感激の気持ちよりも、もしかしたら燃え上がりかたが激しかったのかもしれません。
現地スペインに行く前に書いた曲、「グラナダ」は結局、ララの生涯最大のヒット曲となり、世界を駆け巡ったのです。
本田聖嗣