■『歴史がおわるまえに』(著・與那覇潤 亜紀書房)
この本の冒頭は、「偶然にたどりつくまで」という文章ではじまる。病(双極性障害のうつ状態)を得るまで、新進気鋭の近現代日本史を専攻する歴史学者であった著者、與那覇潤氏が、「偶然が人を助ける」ということを、身をもって経験したことを重く受け止め、歴史についてみていた「必然性」を捨てることを決断したというのだ。
歴史の存在感が薄らいでいる
與那覇氏の著作については、2013年11月の当コラムで、この新著にも対談者として登場している東島誠氏と、歴史上の出来事において同じようなパターンが繰り返し生じる、変わらない日本社会の図柄について対話を行った『日本の起源』(太田出版 2013年)などを紹介した。
「歴史がおわるまえに」の第1章(日本史を語り直す 史論)は、東島氏のほか、2014年に行った3つの才気煥発な対談(呉座勇一、河野有理、福嶋亮大の各氏)が掲載される。「応仁の乱」(中公新書)で世に広く知られるようになった呉座氏が、室町幕府による南北朝の合一をなあなあの合意でできたフィクショナルな平和、戦後レジームとみる見解を引き出すなど、刺激に満ちている。
第2章(眼前の潮流を読む 時評)には、仲正昌樹、宇野常寛、斎藤環の各氏との真摯な対談が含まれる。仲正氏は、「日本は、異質な思想同士が多様性を維持しながら協調することに慣れていない」とし、著者は、「もともと日本には、政治的リベラリズムの芽がない気がします。・・『同質性に基づくなぁなぁ』でしか共存できない。」と応じる。
第3章(現代の原点を探して 戦後再訪)では、江藤淳、山本七平、網野善彦などに焦点をあてて、70年代以降バブル期までの戦後後期の現代史を考察する。ここでも、第1章、第2章をつらぬく「なぁなぁ」ではない、異質なものと共存する在り方を探求している。
與那覇氏の現在を語る第4章(歴史が終わったあとに 現在)の冒頭の紹介文で、著者は、「・・・率直にいって私たちの社会―日本社会に限らず世界の全域でいま、人々が過去の歩みに学ばなくなり、歴史の存在感が薄らいでいることは事実だ。そうした事態を食い止めようとする学者時代の私の活動は、端的にいって徒労だったと思う。むしろこれからは(既存の意味での)歴史が壊死(えし)してゆくことを前提として、それでもなお維持できる共存のあり方を考えなければならないだろう。まだ答えは出せていないが、そのヒントを模索する病後の作品を集めた」という。この章には、「歴史学者」を廃業したことを2018年4月に明らかにして、大きな反響を呼んだ「歴史学者廃業記―歴史喪失の時代」が入っている。
丸山真男を初めて読んだ時の手触りと同じよう
同じく2018年4月に世に問うた「知性は死なない」(文藝春秋)は、著者の病気と離職の経験に基づき、望ましい社会として、社会が能力を共有する「共存主義」を提起したものだった。
1979年生れの著者は、今年40歳で、「不惑」(己れの人生に迷いがなくなること)の年ということになる。歴史学者を廃業し、「必然」ではなく「偶然」、「共存主義」に可能性を見出した著者の「不惑」以後の思索の歩みを深い関心をもってフォローしていきたい。
著者本人には迷惑かもしれないが、本書には、著者同様に座談の名手でもあった丸山真男著「戦中と戦後の間 1936-1957」(みすず書房)を初めて読んだ時の手触りと同じようなものを感じた。「誇大な○○イズム、○○主義を排し、ナショナリズムと民主主義を考え抜いた、珠玉の批評」とされるものだ。丸山真男も、1950年代前半の40歳前後に、肺結核を病んで長期の療養生活を余儀なくされていた。
本書と対になる予定の與那覇氏の学術論文集(近刊予定)の『荒れ野の六十年』(勉誠出版)が楽しみだ。
経済官庁 AK