写真か被写体か
肝心なのは写真や動画か、あるいは被写体(現実)そのものか。古くからあるこの葛藤は大なり小なり、どんな場面でも生じうる。私が日常的に経験するのは、孫の笑顔を待って画面を睨むか、はたまた笑顔で孫と戯れるか、という二者択一である。卑近すぎたか。
シャッターチャンスも実物も「今しかない」のだが、私の場合、新聞記者だったころの悪いクセで、択一なら自分が楽しむ前にまず記録という順番になってしまう。
松本コラムに登場する若い両親も、わが子の成長を記録したいという一心であろう。そこに当の被写体側から、空気を読まない正論が返される。対する両親の反応が書かれていないのが惜しい。私なら「ああ、それもそうだね」とか言って、自らの「大人げなさ」を取り繕うのではなかろうか。スマホは完全にはしまわずに。
絶景は逃げない。いつまでもそこにドンとあるのだが、天候や時間帯を重ねた「この景色」はそれ限り。そして何より、あじさい電車のほうが自分たちを乗せて逃げていく。
そう考えれば松本さんが書くように、「景色を楽しむ子ども」を記録に収めるより、「親子で楽しんだ景色」を五感に刻むのが正解かもしれない。
前者は長く残るが、後者はたぶん深く残る。
冨永 格