週刊現代(9月28日号)の「それがどうした」で、伊集院静さんが郷土閥、学校閥といったものへの冷ややかな思いをつづっている。そういうモノは苦手だと。
「人間はどこかで、己の安堵、こころが安住できるものを求める生きものなのかもしれない。そのイイ例が、何かに自分が属していることで得る安心があるらしい」
地方出身者が都会の片隅で同郷人に出くわせば、えもいわれぬ懐かしさを覚える。東京や大阪に必ず県人会があるのも道理。実際、そういうつながりから商談や縁談がまとまることもある。そうした利点を認めつつ、筆者は「私はこの〈郷土閥〉が苦手である」と明かす。
郷土閥を大事にする人から見れば、年に一度の会合に何十年も欠席の返事しか出さない自分は、もってのほかの部類であろうとつないだうえで...
「私は『あの頃は良かったナ...』などと語る神経が自分の中にない。普段から、私は過去を振り返えるということを一度もしたことがない。おそらく死ぬ間際でさえ、そう思うことはあるまい。過去を振りむいたところで、何もありはしない...」
伊集院さんが見習わねばと思う先輩や後輩たちも、決して過去を振りむかないそうだ。ダンディの周りには、ダンディでハードボイルドな男たちが集まるのだろう。
一人であることを尊重せよ
県人会の次は同窓会である。同じ大学や高校を出たことが仕事や人づき合いに役立つことに触れながら、「この〈学校閥〉というのも、私にはまったくない」と明言している。
「私は、おそらく〈属する〉ことが嫌いなのだろうと、自分では思っている」
なぜ嫌悪するのか。伊集院さんは、学校閥を成立させているのは東大などの「一流大学」であり「三流大学」ではあまり聞かないと指摘して、コラムの佳境を書き進める。
「一流に属してない人から見ると、排他的であったり、上から見られている嫌な感触があるのではないか。己の力量でもない傘の下で、雨、風をしのぐのは大人の男らしくない」
「大人の男」にこだわるのは、コラムの副題「男たちの流儀」からか。
「妙なことを今週は書いていると思う。ただ何人か、わかる人もいると確信する」という一文を挟んで、こんどは「△△世代」という表現がやり玉に挙がる。女子プロゴルフの「黄金世代」やプロ野球の「松坂世代」を例示し、そこに属していると本気で思っているプロは一人もいないはず、プロはそういうことを一番嫌う、と断言する。確かに、帰属意識を糧とするような了見では、プロスポーツの世界で生き残れないだろう。
「人間はまず一人であることを尊重せねばならぬ。それが礼儀である」
先日、ゴルフコースを回っていた伊集院さんは大きな池に打ち込んでしまった。別のホールからもボールが飛来し、水しぶきをあげる。「これは違う属し方で、愛嬌がある」という筆者はしかし、仲間意識を抱くどころか、まずこう思ったという。
「おんなじようなバカがむこうにもいたか」