19世紀を通して人気の音楽芸術といえば、何と言ってもそれは「オペラ」でした。音楽を中心とした「歌劇」は、現代でいえば映画と演劇とミュージカルを合わせたような、市民が楽しむ娯楽の中心だったのです。現代では「芸術」扱いのオペラですが、イタリアでは例えば歌劇場にカジノが併設されていたりして、いわば今、日本で話題の「IR(統合型リゾート)」のようなものだったともいえるでしょう。
同じ19世紀には、ピアノも独立した楽器として認知されるようになりました。鍵盤楽器はその前身のチェンバロの時代から「和音を演奏できる伴奏楽器」という性格が強かったのですが、度重なる改良で音量が飛躍的に増大し、1台でホールを音で満たすことができるようになりました。演奏会のスタイルも、ピアノだけで演奏する「ソロ・リサイタル」というスタイルが登場し、ピアノは楽器の王様と呼ばれるようにさえなりました。
今日は、デビュー当初はピアニストとしても鳴らし、「ソロ・リサイタル」という演奏会スタイルを始めた張本人であり、その後作曲家としても、教育者としても、大きな存在となったフランツ・リストが、人気コンテンツの「オペラ」に挑んだ作品、「リゴレット・パラフレーズ」を取り上げましょう。
ほとんどオペラは作らなかった作曲家
ちなみに、リスト自身は10代の前半に手がけた小さなものと未完の作品以外、オペラを残していません・・言い換えれば、ほとんどオペラは作らなかった作曲家でした。彼は、ピアノ、室内楽、交響詩の作曲家だったのです。ちょっとした皮肉ですが、娘婿のリヒャルト・ワーグナーは「ほとんどオペラだけ」の作曲家・・しかもその作曲技法には多分にリストから受け継いだものも見られます・・・だったので、実に対照的ですね。
オリジナルのオペラには手を染めなかったリストですが、当時の人気オペラのメロディーをモチーフとしたピアノ曲を、数多く残しています。彼が若い頃活躍したフランスでヒットしたオペラを題材としたものがおよそ20曲、オペラの母国イタリアのオペラを題材としたものもほぼ同数、娘婿ワーグナー作品を含むドイツオペラを題材としたものも同じぐらい、そしてスペインやロシアのオペラ作品を元作品としたピアノ曲も作っています。彼は、同時代のオペラ作品をあまねく自作のピアノ曲に取り入れたのです。
中には、オペラの序曲をそのまま管弦楽から編曲してピアノ曲にしたような、「作曲」というより「編曲」というべきスタイルのものもあります。しかし、スーパーヴィルトオーゾピアニストだったリストが、オリジナルの編曲だけでは満足せず、次々にオペラの旋律を元にした変奏をつなげてゆく「変奏曲」のスタイルや、「パラフレーズ」と呼ばれる、さらにそれに自由なアレンジを加えてゆくスタイルでも作曲をしました。
弟子ハンス・フォン・ビューローのために
「リゴレット」はオペラの巨匠、イタリアのヴェルディの中期の大傑作オペラです。有名なアリア「女心の歌」は、ヴェネツィア初演の大成功の後、町中の人が口ずさんでいた、と言われるぐらいの人気演目でした。リストは、このオペラに目をつけますが、彼がピアノ曲の題材としたのは、アリア(オペラの中で、一人の役が単独で歌う歌曲)ではなく、第3幕の四重唱、「美しい恋の乙女よ」をモチーフとしたのです。というのも、このオペラは、ヴェルディ作品にしては珍しく大規模な合唱のシーンが少なく、中心となるキャラクターたちの重唱で心理描写をし、全体が構成されているオペラだからなのです。
原作となるオペラ「リゴレット」が初演されたのは、1851年。そして、リストが「リゴレット・パラフレーズ」を作曲したのは、1859年のことでした。当時のヒット作の伝達速度を考えると、リストは流行に敏感だった、と言えましょう。ただ1811年生まれのリストは、この時期はドイツ・ワイマールの宮廷楽長を務めていた時期で、欧州を股に掛けるピアニスト活動からは少し身を引いており、作曲に専念していました。この作品も、弟子の指揮者にしてピアニスト、ハンス・フォン・ビューローのために書かれたと言われています。ちなみに、ビューローは、のちにワーグナーの妻となるリストの娘、コジマの最初の夫でもありました。
リゴレット・パラフレーズは、演奏時間も7分と比較的短く、当時なら「誰でも知っている」リゴレットの重唱のフレーズを題材とし、きらびやかな変奏を施した作品で、当時から、「リストのオペラ編曲もの」としては、人気も高く、現在でも、最もよく演奏されるこのジャンルの作品となっています。超絶技巧を誇ったリストの作曲ですから、演奏はかなり難しいのですが、19世紀の人気オペラを、19世紀の「ザ・ピアニスト」リストが自由に「いじった」この作品は、当時の栄華を伝えてくれるような華やかな雰囲気に満ちています。
本田聖嗣