ロシア出身の作曲家、イーゴリ・ストラヴィンスキーは、ロシア5人組の一人で管弦楽法の大家であったリムスキー=コルサコフの教えを受け、さらに、ごく若いうちに、名プロデューサー、セルゲイ・ディアギレフに見いだされ、まったくの無名だったにもかかわらず、バレエ・リュス(ロシアバレエ団)がパリで公演するための音楽を依頼されます。彼がそれに答えて三部作「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」を生み出し、それらの作品がパリをはじめとするヨーロッパ諸都市で大評判となったために、一流の作曲家としていきなり広く知られることになった・・・というのは、彼について最も語られる逸話です。
ある人を念頭に作曲
今日は、そんな彼の「バレエ・リュス三部作」とほぼ同時に、ひっそりと作曲された前衛的なカンタータを取り上げましょう。「星の王」という名の作品で、大規模なオーケストラと、男性6部合唱のための作品です。編成は大規模ですが、全部で54小節しかなく、演奏時間は5分に満たない作品です。
しかし、そこには1911年~12年という作曲年代を考えると、ものすごく前衛的な響きが詰め込まれています。たしかに、「バレエ・リュス三部作」のうち、最後の「春の祭典」では、それまでいかなる作曲家も考えつかなかったようなリズムやオーケストレーションによってクラシック音楽とバレエ音楽に「革命」を起こしたストラヴィンスキーですが、この「星の王」の響きは、さらに、先の時代を見据えているような気がします。
実は、ストラヴィンスキーは、ある人を念頭に置いていました。フランスのドビュッシーです。「月の光」や、交響的素描「海」などでよく知られたドビュッシーは、この時期、フランスを代表する作曲家となっていました。ストラヴィンスキーは、1910年に自作の「火の鳥」の公演を見るために初めてパリに足を運び、そこで、ラヴェル、ファリャ、フロラン・シュミットといった人たちと同時にドビュッシーにも出会っており、そこから交友関係がスタートしました。常に新しいものを生み出していったストラヴィンスキーにとって、すでにフランスの音楽界に「牧神の午後への前奏曲」などで新しい風を吹き込み、独特の世界を編み出していたドビュッシーは、何よりあこがれの存在だったのです。
ドビュッシーとの親交は、その後も続き、彼のバレエ・リュスのための作品「遊戯」などもストラヴィンスキーは高く評価しています。
「星の王」とはだれのこと
カンタータ「星の王」はドビュッシーに献呈されました。ストラヴィンスキーは、出来上がった総譜を、彼に送っているのです。当時としては常識はずれといってもいいほど大規模なオーケストラ編成を必要とすることと、その前衛的な響きのため、なかなか演奏機会に恵まれず、公開の演奏会でこの曲が演奏されるのは1939年を待たねばならず、1918年に没しているドビュッシーは演奏を耳にすることはできなかったのですが、楽譜を送られて、辛口の批評家としても有名だったドビュッシーも、ストラヴィンスキーに最大限の賛辞を送っています。
この時期のストラヴィンスキーは、上演期限があらかじめ決められていた「火の鳥」を仕上げ、その製作途中に「春の祭典」の構想が浮かび、その作曲にも取り掛かっている途中に、息抜きとしてつくったピアノ協奏曲風作品が「ペトルーシュカ」として形になり、これらをバレエ音楽として整え、さらにはバレエ団との練習にも立ち会う、という膨大な作業に追われていたところでした。
しかし、そんな中にあっても、たとえ短い作品といえど、この曲を仕上げ、ドビュッシーに送ったということは、ストラヴィンスキーの彼に対する並々ならぬリスペクトぶりがうかがえます。
ちなみにタイトルの「星の王」とは、ロシア語の原題の意味としては「星の顔をもった王」という解釈ができ、これは「聖イエス・キリスト」を指しています。そこには深い意味は込められておらず、語感の面白さからこのタイトルにした、とストラヴィンスキーは言い残していますが、この時期の彼にとって、ドビュッシーは、文字通り「スター」だったのかもしれません。
二人のお互いのリスペクトがうかがえる、とても前衛的な、素敵な曲です。
本田聖嗣