タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
だからどう、ということではないのだが、普段、テレビドラマや映画を見ることはほとんどない。興味がないわけではなく拒否しているのでもない。音楽だけで手いっぱいでそこまでの時間がないに過ぎない。
従って、「菅田将暉」という名前も2017年にCDデビューした時に知った。
第一印象は「声」だった。
渇いている。そして乾いている。明るいけれど能天気じゃない。何かに苛立っているようで、すがっているようにも聞こえる。甘さや感傷を拭い去るような意志がほとばしっているけれど幼さや「蒼さ」も残している。
この若者は何だろう。
それが最初だった。
米津玄師とコラボ
とは云うものの、ドラマに縁のない人間にとって、彼に接する機会は多くない。「やっぱり」と思ったのは、同じ年に米津玄師とのコラボレーション曲「灰色と青(+菅田将暉)」が出た時だ。米津玄師が彼を選んだことへの納得、というか共感。「なるほど」であり「やっぱり」だった。
「灰色と青」は、過ぎた日の追想ソングとしての傑作だと思う。もう戻れることのないこれまでの時間への距離感。米津玄師の湿り気のある哀歓と違う、菅田将暉の突き放したような思い切りと諦観。声にはその人の生きざまが出る。「無様」という言葉をこんなに凛として歌った男性シンガーはいただろうか、と思った。
2019年7月、二枚目のアルバム「LOVE」が出た。一曲目には、やはり米津玄師がプロデュースして詞も曲も書いている「まちがいさがし」が入っている。
まちがいと正解。もし、「まちがいさがし」をするとしたら、「間違い」の方に生まれてきたという感覚。それは米津玄師の曲にもずっと流れている「外れてしまった」という意識とつながっているだろう。
アルバムを聴きながら、これは「世代」なのだろうか、と思った。
菅田将暉は93年3月生まれ、米津玄師は91年3月生まれ。2年違いではあるが、二人には同じ何かが流れている。それは「灰色と青」で言えば「無様」であり「まちがいさがし」で言えば「間違い」ということになるだろう。決して自分が「正解」の側にいない。自分がいるのは「間違いだらけの些細な隙間」で「正しくありたい あれない寂しさ」に捕らわれている。
「まちがいさがし」は、痛いくらいのラブソングだ。「君」と触れている時は「間違いか正解かだなんて」どうでもよくなれる。
そうしたラブソングが自分を「正解」と思えない若者たちに共感を呼んでいる。
ものさしを作れ
アルバム「LOVE」は、米津玄師の他にシンガーソングライターの石崎ひゅーい、amazarashiの秋田ひろむ、忘れらんねえよの柴田隆浩、あいみょん、ドレスコードの志磨遼平らも詞曲を書いている。菅田将暉は詞曲を5曲、詞だけを2曲書いている。作家として加わっている人たちの中で90年代生まれは米津玄師とあいみょんの二人だけで他は80年代生まれ。そういう意味で厳密に同じ世代にはならないのだろうが、どの曲も同じような人生観が流れているように聞こえた。
それは「物欲への無関心」「きれいごとへの警戒心」とでもいおうか。
たとえば、「お金も洋服もいらないよ」(「クローバー」)「遍く挫折に光あれ 成功失敗に意味はないぜ」(「ロングホープ・フィリア」)「ああ汚れていくんだ、心が お願いだから僕の隣にいて」(「7.1oz」)「今日もマシンガンをぶっぱなしてやる」(「ドラス」)「何気ない言葉 欲しさにつけこんだメロディ」(「つもる話」)、「いつのまにか おわりがはじまる」(「りびんぐでっど」)「憧れにすがりついた僕は 映画を観ても泣けないよ」(「あいつとその子」)というような一行もそんな例だろう。
アルバムの最後の曲「ベイビィ」は「丸 サンカク 視覚 よくわからないヤツ」で始まり「ギザギザな 夢を 振りほどいて ものさし を 作れ」と終わっている。
「ものさしなき世代」とでもいえばいいのかもしれない。「夢」は「ギザギザ」なのだ。自分たちの置かれている状況やこれから生きてゆく世界に対しての冷めた視線。世の中に溢れている絵にかいたような「希望」や「幸福」や「成功」に対しての懐疑心。敗北も喪失も挫折も身近なところにある。どうやってもかっこよくなれない。でも、それに流されずここから必死に抜け出そうともがいている。諦めているのではなく手探りで体当たりの戦いを展開している。
米津玄師が「灰色と青」収録のアルバム「BOOTLEG」発売時に筆者のインタビューで使っていたのは「ともかく遠くへ行きたい」という狂おしいばかりの渇望感だった。
菅田将暉の歌やミュージック映像の動作には隠し持っているナイフが一瞬光るような危うい「暴力的瞬間」がある。それは「内に秘める米津玄師」と「外に溢れる菅田将暉」という違いで根底にあるものは同じなのではないだろうかと思った。
優しいアルバム
アルバム「LOVE」で特筆しなければいけないのは、あいみょんが詞曲を書いた「キスだけで feat. あいみょん」だろう。テーマは女性の生理。しかも「私 今日は女だから」という部分を菅田将暉に歌わせている。
古いところではサザンオールスターズの「恋するマンスリーデイ」が、思い浮かぶくらいで歌にするにはハードルの高いテーマを、あいみょんはいじらしいまでのラブソングに仕上げている。しかも、女性の気持ちを男性が歌い、男性の心理を女性が歌う。「男らしさ」や「女らしさ」という「性差」を超えた稀有なラブソングだった。
あいみょんは95年3月生れ。つまり「バブルを知らない世代」と言って良いだろう。もし、人々の「希望」が、社会的な環境や経済的事情に左右されるとしたら、その実感がないままに成人した世代である。
ミュージシャンのインタビューで「世代」という言葉に肯定的な反応が返ってくるようになったのは、この数年のような気がしている。具体的に言えば2011年以降だろう。去年のRADWIMPSの「ANTI ANTI GENERATION」もそんな例だ。
それ以前にしばしば耳にしたのは「世代ではなく個人」という反応だった。そうした答えは「安易に一括りにしないでくれ」という自意識の表れだったように思う。
近年は違う。「同じような時代を生きている」「人はひとりでは生きていけない」という意識。それが今の若者たちの「優しさ」にもつながっているのではないだろうか。
菅田将暉の「LOVE」は、優しいアルバムだと思う。「ギザギザな夢」を見ることしか出来ないまま「ものさし」を探している若者たちのラブソング。「よくわからない」彼らに対しての「新しいものさし」を大人たちも作らなければいけないのだと思う。
(タケ)