VERY 8月号の「考えない男」で、フリーライターのクリス-ウェブ佳子さんが、コミュニケーションに潜むウソについて書いている。
筆者は、いわゆる読者モデルの出身。2010年からVERYの専属モデルを務め、いまは執筆の傍ら2女を育てる日々。2017年、同誌の版元である光文社からエッセイ集「考える女(ひと)」を出しており、連載のタイトルはそれをひねったものだろう。
「ただですら話し手の真意を汲み取ることは難しいのに、SNSでのメッセージのやり取りの面倒臭さと言ったらありません」...この冒頭に続き、次女とのLINEでのやり取りが明かされる。いきなり「怒ってるみたい」と返信されたそうだ。
次女がそう感じたのは、筆者がメッセージの最後に打った句点(マル)のせいだった。
「マルは文体を硬化させるだけでなく機嫌が悪い印象を与えるとのこと。『明日スタバに7時ね。』より『明日スタバに7時ね~』が社交的だというわけです」
SNSは便利だが、文字と、せいぜい絵文字だけの世界において意思疎通はかえって複雑化し、「そんなつもりでは...」という行き違いがまま起こる。
米国の心理学者が提唱した「メラビアンの法則」によると、話し手が聞き手に与える影響のうち、言語情報、つまり話の内容の重みはわずか7%。他方、声のトーンなどの聴覚情報は38%、身ぶりや表情などの視覚情報は55%を占める。文字のみのコミュニケーションは、後者二つを封印した「7%の勝負」となる計算である。
SNSは欺瞞に満ちて
クリス-ウェブさんは、ここで「ウソ」の話に移る。元夫のウソは完全に見破る自信があるというのだ。一緒に暮らしているうちに、「嘘をついている時や話を大きく盛っている時のわずかな仕草や声色に敏感になったからです」。
彼女によると、ウソをつく人の胸中には三つの感情が生じるという。見破られるかもしれない恐怖心、もちろん罪悪感、そして、だましているという喜びだ。こうした心の動きが表情や声色に表れる。科学的に訓練された「ウソ発見人」は、これを9割の確率で見破るそうだ。ただし、もともと上記三つの感情を持たないサイコパスには歯が立たないと。
人は日常的にウソをつく。初対面同士だと、最初の10分でお互い平均三つずつのウソをつくらしい。いやはや。
「例えば『はじめまして』という挨拶。実は会ったことがあるのに相手が初めてだと思うなら...私はそこで気を利かせて(というよりも面倒なので)『はじめまして』と嘘をつきます。ほら、もう1秒以内で嘘1回」
文字だけに頼るSNSの世界も同じである。
「日常という、これまでは隠されたコンテンツを自らブログやSNSで世界に向けて発信するという習慣を身につけた私たち。一見全てが筒抜けのようでいて、実は欺瞞に満ちた世界だったりすることを理解していなければいけません」
「話半分」で読みましょう
上記エッセイのタイトルは「みんな嘘つき」。知見の引用も的確で、なかなか手練れの展開である。「モデル出身にしては...」なんて思いは全くない。こうした文才に恵まれた女性が(たまたま)モデルとしても稼げる外見を有していた、そういうことなのだ。
さて、われわれ旧メディアの出身者は、しばしば若者の「新聞ばなれ」を嘆く。ただ、これは「紙ばなれ」ではあっても「文字ばなれ」ではない。新聞社が発信する情報は日々、ネット上で拡散されているし、メールやLINE、ツイッターもフェイスブックも、文字情報である。若者たちは上の世代以上に文字文化に日常的に浸っていて、中高生発の「LINE文化」「メール文体」のようなものが蓄積されつつある。
そんなことを、先ごろの講演でお話しした。テーマは「書く歓びと、少しばかりの責任」。クリス-ウェブさんの考察も、SNSで留意すべき点に関するものだ。ただし「少しばかりの責任」ならぬ「少なからずのウソ」についてである。
表情や声がマスクされている分、ウソだと気づく手がかりは少ない。なにしろメラビアンの法則によれば、面と向かってのコミュニケーションに比べ、情報量は7%しかない。発信された情報が倍に盛られているとすれば、話半分で読まないと計算が合わない。
もちろん、あなたが読んでいる冨永の連載も例外ではない。
冨永 格