「カッチーニ作品」なら著作権は消滅している
上記の通り、「カッチーニのアヴェ・マリア」は専門家が聞けば、ハーモニーにおいても、リズムにおいても、「バロックではありえない音楽」・・いや、「20世紀以降の誰かが作曲した音楽」と判断できるので、現在ではほぼヴァヴィロフ自身が作曲した作品、ということで定着していますが、それでも、なんとなく「バロック時代の古い音楽」としたほうが雰囲気が出るからか、現在でも「カッチーニのアヴェ・マリア」の表記のほうが多くなっています。勘繰るならば、ヴァヴィロフ作品とすれば、演奏するにあたって著作権料が発生しますが、カッチーニ作品としておけば、作曲者の著作権は消滅しているので、関係者が「そのままにしておいて・・・」と考えた場合もあるかも?なんて想像できます。
複雑に高度化した現在、著作権の定義は大変厳しく、さまざまな論議を呼んでいます。現在日本では、音楽教室の中の教育のための演奏を「公衆への演奏」として著作権料を徴収するかどうか・・というような裁判まで行われておりますが、長い歴史を持つクラシック音楽の場合、著作権などあまり念頭になく、「自由にその時のヒット曲を主題に変奏曲を作る」というスタイルなどが流行した時代もあります。若手の無名の作曲家が自分の名前を売り込むときにはそういった作品が必要だったりするので、モーツァルトも、ベートーヴェンも、ショパンも、その時代の「誰でも知っている名曲」のメロディーを基にした変奏曲を、特に若いころ作っています。
「カッチーニのアヴェ・マリア」は、むしろ逆で、作曲者ヴァヴィロフが「他人の名前の陰に隠れたかったから」というケースですが、本当の作曲者という真実が闇の中・・という変わった現象が起きるのも、長い歴史があるクラシック音楽ならではのケースかもしれません。
旋律が印象的で、耳に残る名曲だけに、亡くなる前に、真の作曲家にカミングアウトしてほしかったな・・と思ったりしてしまいます。
本田聖嗣