■『キャッシュレス国家――「中国新経済」の光と影――』(西村友作著、文春新書)
最近、「現金」を使うことがめっきり減った。地下鉄はPASMOでピッ、ランチも食堂の券売機でPASMO払い、飲み物を買う地下のセブンイレブンではnanacoカード。気が付くと、丸1日、現金を1円も使わないときがある。
以前は、いつ何時、入り用になるかわからないので、財布にお札が何枚入っているかぐらいは確認していた。ところが最近は、あまりに現金の使用頻度が減ったこともあって、つい油断してしまう。先日は、「さあ、みんなで割り勘」という場面で、手持ちがないというみっともない経験をした。
確かに日本でも、キャッシュレス社会が浸透しつつある。
そのはるか先をいっているのが中国だ。
中国では、2010年代に入ってスマートフォン(スマホ)にインストールされた決済アプリをプラットフォームとして、これまでになかった新たなビジネスが次々と生まれている。
本書は、こうしたキャッシュレス社会が到来した「中国新経済」の最新事情を教えてくれる。著者は、北京在住18年の日本人の経済学者。現地の経済金融系重点大学(対外経済貿易大学)で博士号を取り、そのまま教員を続ける中で、日々、自らが体験し、あるいはデジタルネイティブの教え子から教わったキャッシュレス社会のリアルをわかりやすく解説している。
次々と新たなサービスが生まれる中国新経済
本書の冒頭で、著者がしばしば通う地元の四川料理店での模様が紹介されている。
「テーブルの端に設置してあるQRコードをスマホでスキャンすると、写真付きの料理一覧が出てくる。商品名をタップして数量を入力し、決定するとオーダーされる。食事後は、食べた料理の名前と品数、値段をスマホ上で確認。支払いボタンをタップして指紋認証で完了。店員は料理を運んでくる以外、一切かかわらない」
「お店への支払いはアリババの決済アプリ(アリペイ)を使うが、食後に友人たちと割り勘にするときは、アリババと並んで中国ではポピュラーな決済アプリ、テンセントのウィーチャットペイを使う」
普通のレストランですらこうなのだから、先をゆく店では、従業員は厨房のみ、その他はすべてセルフサービスといった無人レストランも登場しているという。
無人化は、飲食店だけではない。無人コンビニ、さらには無人ジム、無人カラオケまで広がっているという(何と無人カラオケは、北京首都空港ターミナルの搭乗口前にまであり、搭乗を待つ旅行客が利用しているとのこと)。
モバイル決済の普及は、中国の交通事情も大きく変えた。
スマホを使った配車サービスは、タクシーにとどまらず、一般市民がマイカーを使って有料送迎を行うライドシェアの爆発的普及につながっている。
また、庶民の足である自転車にも応用され、都市部では「シェア自転車」が広がっている。自転車に貼り付けてあるQRコードをスマホでスキャンすれば利用でき、GPS(全地球測位システム)が搭載されているから、どこでも乗り捨て可能だそうだ。何とこのシェア自転車、「QRコード決済」、「高速鉄道」、「ネット・ショッピング」と並ぶ「新四大発明」と呼ばれたそうである。
モバイル決済が中国社会を変えた
次々とこうした新サービスが生まれた背景には、モバイル決済が短期間のうちに一挙に中国全土に広がったという事情がある。
もちろんそれはモバイル決済それ自体の「利便性」が大きいが、中国の場合、従来の現金経済に様々な不便があったことも大きな理由だという。
著者によれば、中国では汚れてヨレヨレになっている紙幣をよく見かけたそうだ。自販機の紙幣投入口にお札を入れても戻ってきてしまうから、自販機そのものがあまり普及しなかったという。
こうした現金決済の制約の中で、スマホによる決済がやってきたのだ。
今では、馬車でクルミを売る行商も、街角で二胡を演奏する高齢者も、モバイル決裁だ。自分の振込先を示すQRコードを荷台や空き缶に貼り付け、客にスマホで読み取ってもらい、代金や投げ銭を受け取っている。
今や、モバイル決済に対応していない場所は、観光地の入園料などに限られるという。
日本においても、昨年から各種QRコード決済サービスが本格的にスタートした。本年10月の消費増税に当たっては経済対策の一環としてキャッシュレス決済時のポイント還元が予定されるなど、キャッシュレスの普及に向けた取組みも本格化している。
人口減少に伴って働き手が大きく減る日本にとっても、キャッシュレス化は有効な方策と期待されるが、果たして、中国のように爆発的なスピードで普及していくのかどうか、それとも、現金経済がなお続くのか、興味深いところだ。
キャッシュレス中国の課題
PASMOやnanacoカードなど、冒頭に述べた評者自身の経験でも明らかなように、確かに現金を必要としないキャッシュレスは便利だ。そして、今や中国は、その先端を走り、中国新経済と呼ばれる新サービスを次々と生み出している。
果たして、こうした動きに死角はないのか?
著者は、最終章で、中国のキャッシュレス社会のデメリットも分析している。
その一つが、一見、先端技術を駆使して展開しているように見える新サービスも、最終的には多数の低賃金の農民工によって支えられているという問題だ。
シェア自転車なら、乗り捨てられた自転車の回収、修理などは農民工が担っているし、無人ジムや無人カラオケ、無人コンビニの清掃やメンテナンスも農民工の手によるのだ。
2011年以降、生産年齢人口が減り始めている中国にとって、かつてのような労働集約型モデルを維持し続けることは難しい。更に技術を発展させて、真の省人化、無人化につなげていけるかが問われている。
もう一つが個人情報の問題だ。
中国において、短期間にキャッシュレス・サービスが普及したのは、何よりも無料だったからだ。しかし無料といっても対価は存在する。サービス利用者自身の個人情報だ。これを一方的に情報を握るプラットフォーマーが自由に活用できるままでよいのかという問題である。
そして、この問題は中国一国の問題でなく、グローバルな課題でもある。欧州を中心に個人情報保護が重視される状況にあって、今後、中国はどのような途を歩むのだろうか。
著者曰く、「日本人と比較すると、中国人は個人情報の共有に対しそこまで敏感ではないように感じる」という。
実際、中国で覇権を握る二大プラットフォーマー(アリペイとウィーチャットペイ)は、サービス利用者の決済情報のほか、様々な個人情報を集積し、スコア化し、活用している。スコア(点数)によって、顧客を差別化しつつ、積極的に利用者の囲い込みに利用しているのだ。
こうしたビジネスモデルは、米国の同種のプラットフォーマーでも同様であるが、中国の場合、民間ベースで集められた信用情報を社会統治に組み込もうとしている点に大きな違いがある。個人の信用調査を、民間企業による分散型の仕組みではなく、政府主導の中央集権的な仕組みに統一しようとしているそうだ。
政治と経済が一体である中国にとって、違和感のないことなのかもしれないが、果たして、国家が一人ひとりの国民の個人情報を握ることが、中国の社会・経済にどのような影響を及ぼすことになるのか、また、それは国際政治の文脈においてどのような意味をもたらすのか、重大な課題だと思う。
中国の社会実験から目が離せない
本書において、著者は、モバイル決済の普及を契機として始まった中国新経済の展開を「壮大な社会実験」と呼び、中国社会の大転換だと表現している。確かに、欧州や日本では、なかなか真似のできない挑戦である。
決して、このまま順調に進むとは思われないし、現に、様々な問題が生じている。しかし、キャッシュレス化とこれを基盤とした新たなサービスがもたらす可能性は極めて大きい。特に、生産年齢人口の減少など日中両国が直面している課題を考えると、正面から取り組むべきテーマであろう。
中国でのキャッシュレス社会の今後の展開から目が離せない。
JOJO(厚生労働省)