2011年3月11日、東日本大震災が発生した。2019年3月1日現在の死亡者数は12都道県で1万5897人、行方不明者は6県で2533人、遺体が発見されたものの身元のわからない人がおよそ60人。
大震災発生後、発見された遺体が安置所に何百と並べられ、身元がわかった遺体は次々に遺族に引き取られていった。
だが、その中に別人の遺体を家族のものだと思って引き取った取り違えが22件発生している。
公益財団法人韓昌祐・哲(ハンチャンウ・テツ)文化財団の2018年度助成受贈者、岩手医科大学法科学講座法歯学・災害口腔医学分野の熊谷章子准教授は、こう話す。
「22件という数は、おそらく氷山の一角だと思います」
それが、被災地となった岩手県沿岸部で、自ら遺体の身元確認に必要な「歯科所見をとる」作業に当たった熊谷の実感である。
遺体取り違えが起きた現場の実態
「歯科所見をとる」とは、遺体の口のなかの状態を確認し、歯の欠損や治療痕、義歯の使用などの特徴を採取して記録する作業をいう。
そのほかに本来なら口腔内の写真撮影やレントゲン撮影も加わるのだが、相次いで遺体が運び込まれる状況下では省略せざる得ない作業もあった。
それにしても取り違えとは。なぜこのようなことが起こったのか。3月11日、熊谷は大学で震度6の地震に遭遇した。停電でテレビは映らず、ラジオも正確な情報を伝えていない。当時、停電が復旧するまで岩手県内でも沿岸部が大津波に襲われていることを知らない人は少なくなかった。
自宅で待機していた時、携帯電話に法医学講座の出羽厚二教授からメッセージが入った。
「津波によって、多くの死者が出た模様。明日からの身元確認作業に協力をお願いすることになります」
翌12日の昼前、岩手県警察本部や警察歯科委員のメンバーとともに沿岸部の安置所に向かった。そこで見たのは遺体がずらりと並べられた光景。火災でひどく損傷した遺体も少なくなかった。
「その後、死者数が増えていくにつれて、専門的な知識や経験のある法歯学者や警察歯科医だけでは歯科所見の採取作業が追いつかなくなり、地元の歯科医師や各県からのボランティア歯科医師が集められ作業にあたりました」
ほとんどのボランティア医師は災害で亡くなった遺体を見たことがない。誰も経験したことのない大災害なのだから、大量の遺体を前にどうしてよいか分からなくなったのも当然だったろう。
当初、避難所をまわり家族や友人を捜していた人々は、時間が経つにつれ遺体安置所へやって来る。少しでも早く家族を見つけたい。見つかれば直ぐに引き取りたいという一心で、遺体袋に貼られた写真を確認していく。悲痛な泣き声が響いた。
一方で県警側も、「うちの家族だ」と申し出てきた遺体はできるだけ早く引き渡したい。未曾有(みぞう)の混乱の中で、本来必要である科学的な身元確認がなされないまま、見た目の照合だけで引き取られていった遺体が多かった。その結果「取り違え」という、本来あってはならないことが起きてしまったのである。
ベルギーでテロ事件に遭遇、スマートさに驚く
災害が多く、テクノロジーが進んでいるはずの日本で、遺体の身元確認方法がずさんなまま放置されてきたのはなぜだろうか。コストや手間の問題もあるが、熊谷は、「日本のお国柄が関係しているのではないか」という。
「日本では、《死》とは縁起の悪いものだという感覚が強いと思うのです。災害が起きて多くの死者が出ることが想定されていながら、それに対して具体的に備えることも縁起が悪い。また見つかった死者はできるだけ早く弔(とむら)って荼毘(だび)にふしたい。そう考える人がまだまだ多いでしょう」
だが、世界的にはそうではない。遺体は、歯科所見、指紋、DNA型という個人識別ための三大手段のデータを取っておくことが重要なのである。データを揃えずに葬(ほうむ)ることは死者の尊厳を損なうことだという考えが、一般に浸透しているという。
2016年3月下旬、ベルギーに留学していた時、ブリュッセルで連続爆破テロ事件に遭遇した。留学先の病院に次々と遺体が運ばれてきた。熊谷も留学生として手伝ったが、そのやり方は国際刑事警察機構(インターポール)の規約や手順に沿ったものであり、非常にスマートに感じられた。
「私は速やかな対応に感銘を受けたのですが、別の国で経験を積んだ人から『ベルギーのやり方はまだまだだ・・』と言われ、驚きました。残念ながら、今の日本は国際刑事警察機構の基準ではまったく認められないほど遅れを取っています」
東日本大震災後では日本各地で多くの災害が起きた。だが、身元確認がずさんなまま遺体が引き渡されるケースは今も続いているという。将来、確実に大災害が来ると予想されている我が国で、こういう状態がいつまで放置されていくのだろうか。
「東日本大震災では、岩手県内だけでも30数カ所の遺体安置所がありました。各遺体安置所に一人でも二人でも専門家がいれば、ボランティア歯科医師に指示を出して、適切な歯科所見を取ることができたと思います」
日本人の意識をすぐに変えていくことは難しいかもしれない。しかし、県警や行政の中に専門的な知識を持った人を少しでも増やすことで状況を変えていきたいと熊谷は考える。世界で当たり前になっていることが日本で出来なくて良いわけがない。
「今年はラグビーW杯がありますし、来年は東京オリンピック・パラリンピックがあります。そのタイミングで万が一大災害が起きた時、外国人を含めて多くの死者が出る可能性があります。その時に日本がしっかりした死者の身元確認が出来ないようでは大問題になるでしょう」
ワークショップで経験を積んでおけば
大災害で死者が出るなんてとんでもない−−−こう考えてしまうのではなく、悲惨な事態に直面した時にどうすれば的確に動けるか、を考えなくてはならない。「悲観的に備え、楽観的に対処する」という危機管理の基本を、災害での身元確認活動の現場に浸透させる必要があるのだ。
そこで熊谷が考えたのは、法歯学の専門家で多くの実績を持つ韓国のLee Sang-Seob氏(National Forensic Service 法歯学門部長)を招いて、韓国の「National Forensic Service」のシステムと災害対応について学ぶセミナーを開催することだった。「National Forensic Service」は、国立の科学捜査研究機関である。
セミナーの対象者は警察官や警察協力歯科医をはじめとする検視・身元確認に携(たずさ)わるすべての人々。初めての試みでもあり、まずは岩手県盛岡市を会場にして県内の参加者を募ることにした。問題は資金だったが、
「いろいろ調べていくうちに、公益財団法人韓昌祐・哲文化財団が助成申請者を公募していることを知り、申し込んだところ選んでいただけました」
助成金で講師や通訳への謝礼、会場費、さらにはワークショップで使用する遺体の模型(ファントム)、作業用ワゴン、防護服やマスク、グローブなどの備品を出すことが出来る。遺体の模型を見せてもらったが、高齢女性という設定で作られており、口腔内には治療痕のある歯のほか、ブリッジによる部分入れ歯まで入っていた。
どこをチェックしてどのように記録を取っていくか、具体的に学ぶことができる。ワークショップで経験を積んでおけば、実際に遺体を前にした時もたじろぐことなく、作業にとりかかれるだろう。
東日本大震災で、招集されたものの何をやるべきかわからず、運ばれてくる損傷の激しい遺体を見て、心的外傷後ストレス障害(PTSD)のような症状に苦しむことになった歯科医もいた。
事前に訓練されることで的確な作業に取り組むことができ、PTSDを少しでも防ぐことが出来るかもしれない。
何より、身元をきちんと特定して確実に遺族へ引き渡すことができなかった教訓をより良いものに変えていかなければ、死者は浮かばれない。今も取り違えられたまま、別人の墓で眠っている死者がいるのではないか。また、それとは知らず、「家族がまだ海の底に眠っている」と苦しんでいる遺族もいるのではないか。
歯型の治療痕などを示す「歯科所見」だけを身元確認の決め手とするのではなく、指紋とDNA型を加えた国際標準へ転換することが、無念の死者に応えることになるはずだ。
国際的大規模災害セミナーは2019年9月12日(木)、JR盛岡駅すぐそばにある「アイーナ いわて県民情報交流センター」で開催される。平日の木曜に開くのは、県警職員が参加しやすい上に、木曜を休みにしている歯科医院が多いからだという。
「少しでも多くの人に災害犠牲者身元確認の世界標準を知っていただいて、次の災害に備えたいと思います」 (敬称略)
(ノンフィクションライター 千葉 望)