白、赤、青、黄、紫......さまざまな色の紐(ひも)が複雑に絡まり合った造形物の写真が目に飛び込んできた。
「これは、韓国の紐、日本の紐、そして京都の錦糸(きんし)をまぜてあるんです。韓国人と日本人がなかなか解くことができない関係や感情のもつれって、こんなイメージでしょうか」
京都市内の廃校になった小学校。作品展の会場となった築88年の校舎の中で、芸術家のBae Sang-Sun(ベ・サンスン=裵相順)は、そう解説する。
Baeは、この作品を、韓国の大田(テジョン)という町で戦前に生まれ育った日本人7人を含む、朝鮮半島生まれの日本人14人にインタビューし、その中で得たモチーフをもとに作品を制作した。とくに2018年以降の活動費になったのが、公益財団法人韓昌祐・哲(ハンチャンウ・テツ)文化財団の助成金である。
目に飛び込んできた「日本人が戦前に建てた家」
今は韓国で五番目に大きな都市になった大田広域市に引かれた理由について、Baeは、次のように話す。
「私は韓国出身ですが、20代で日本に来て、16年の京都暮らしを含めて19年近く日本で暮らしています。日本の暮らしが長くなるにつれ、韓国のことをもっと知りたい気持ちが強くなっていったのです。そんなとき、韓国の大田文化財団が、市内にある文化的資産を芸術家の視点で捉え直すプロジェクトを始めたのを知り、応募しました」
それは2015年のことだ。9人の芸術家が創作の対象を求めて町の中を歩き回った。Baeの目に飛び込んできたのは、なぜか、日本人が戦前に建てた家ばかりだった。朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月)で大田の町はほぼ壊滅したのだが、蘇堤洞(ソジェドン)という地域に鉄道技術者の官舎だった家がまだ残っており、官舎の番号を記した札が貼られたままの家もあった。
寒村だった大田を、鉄道の重要な中継拠点として日本が開発に着手したのが1904年(明治37年)。朝鮮半島を植民地支配する6年前のことだ。日本は日露戦争に備えて、朝鮮半島を横断する鉄道建設を急いでいたのだ。翌年、京城(現・ソウル)と釜山を結ぶ京釜(けいふ)鉄道が開通、以来、大田に日本人が多数住むようになり、急速に都市化していく。
それにしても、なぜ日本家屋に引かれ、日本人に話を聞こうと思ったのだろう。
「自宅近くの京都の町並みによく似ていたこと。それと当時の日本人と私が置かれた状況に共通するところがあったからです。つまり、自分の夢やいろんなことを叶えるために、母国を離れて暮らした。でも戦争が終わったので日本人は帰国した。私も何かあったら韓国に戻るときがくるかもしれない。また大田で生まれ、幼少期を過ごした日本人はどんな思い出があるのか。私にも子どもがいるので、聞いておきたいとも思ったのです」
Baeが、京都に住むきっかけになったのは仏像である。韓国の大学で美術を学んでいたが、4年生のとき、友人の母親が京都に住んでいたので訪れた。日本にも仏像にも興味はなかったが、たまたま案内された広隆寺(こうりゅうじ)の弥勒菩薩(みろくぼさつ)と対面した途端、涙が溢れてきた。
「仏像の顔に自分の家族が映っていたのです。ヨーロッパの美術館にたくさん行き、憧れのような感情があったけど涙はでなかった。このとき初めて芸術って何かを考えました」
大学を卒業後、学校で教師をしたあとに来日。武蔵野美術大学大学院を経て、2008年まで京都市立芸術大学大学院で研究生活を送った。