興奮して帰ろうとしなかった観客
山川が「舞踏」と出会ったのは10代の終わりだ。秋田高校時代、高校紛争の運動の渦中で中退。その頃、唐十郎(から・じゅうろう)と状況劇場の公演に心酔し、アングラ演劇を志す。1960年代半ばから70年代にかけて隆盛したアングラ演劇。舞踊界では暗黒舞踏派を率いる土方巽がおり、衝撃を受けたのが「静かな家」という作品だ。
なぜなら舞台の上で展開されていたのは、生まれ育った秋田の風景そのものだったから。板戸や箪笥を背負い、吹雪の中を黙々と歩く男たち。そこにバッハのフーガが重なり合う。土方は自身の原風景である東北の景色と身体にこだわり、神話の世界を創りあげていた。
「うわっ、こんな光景を舞台に乗せていいのかと、ものすごい衝撃でした。田舎臭いところが嫌で出てきたけれど、自分の中にある『秋田って、何だ?』という疑問にもとことん向き合わないと、本物の表現は出てこないだろうと気づかされた」と山川は顧みる。
上京から4年後、劇団究竟頂(くきょうちょう)〈銀色テント〉を結成。終戦直前、秋田の花岡鉱山へ強制連行された中国人が過酷な労働と虐待、拷問などで400人以上が死んだ「花岡事件」を題材に旗揚げ公演を敢行した。以来、劇作家、演出家、役者として芝居に関わってきた山川は、86年に劇団を解散。その後は演劇評論や人材育成などを手がけてきたが、60代にして「秋田」と深く関わることになる。
きっかけは2014年、秋田で国民文化祭が開催されることになり、「舞踊・舞踏フェスティバル」を提案した。地元では土方巽の名も知られていなかったが、文化祭の目玉として企画を任される。そこで土方に師事した麿赤児(まろ・あかじ)の「大駱駝艦」を招いたところ、700人の劇場がびっしり埋まり、壮大な舞踏に魅せられた観客は興奮して帰ろうとしなかった。翌年には『踊る。秋田』実行委員会が発足し、山川はディレクターに就任した。
2016年からスタートするにあたり、韓国を訪れた山川は多彩なダンサーと出会う。「僧舞(スンム)」は韓国を代表する古典舞踊で、荒々しく豪放な男性僧舞に惹きこまれる。国立ソウル芸術総合学校で教える南貞鎬(ナム・ジョンホ)はモダンダンスの第一人者。さらに最前線をいく男性ダンスグループ「モダンテーブル」の踊り手にも圧倒された。
「韓国のダンスの面白さは古典との境がないこと。例えば、モダンテーブルの『ダークネス・プンバ』は伝統的なプンバ(乞食歌)を素材にした作品で、ロックバンドの生演奏で踊るけれど、古典のステップが活かされている。韓国の芸大で学ぶ人たちも必ず古典舞踊から始まり、古典のテクニックを身につけてからコンテンポラリーに移っていく。いわば根っこで繋がっているんです」