■『幕末の天皇』(藤田覚著、講談社学術文庫)
戦国時代の天下統一を果たした英雄について、「織田がこね 豊臣がつきし天下餅 食らうは徳川」という表現がある。著者は、明治維新の王政復古について、「光格がこね 孝明がつきし王政復古餅 食らうは明治」とたとえている。
江戸時代の幕藩体制は、朝廷が徳川家康を征夷大将軍に任命し江戸幕府を開かせることが根拠となっている。むき出しの武力ではなく、鎌倉、室町幕府以来の正当性に裏打ちされた権威である。国家の不可欠の要素として朝廷は位置づけられていた。その一方で、将軍、老中、京都所司代、禁裏付(ここまでが武士)、武家伝奏(ここからが公家)、関白、天皇という意思疎通のルートができ、政治と行政は幕府にゆだねる「大政委任」という仕組みが確立していた。関白と武家伝奏の人事には幕府の同意が必要であったほどである。
それでは、光格天皇は江戸時代の天皇の位置づけにどのような変化をもたらしたのか。そして、光格天皇の孫に当たる孝明天皇は、二代前の光格天皇が築いた地位と権威をどのように継承したのか。
米国、英国、ロシアなどの開国要求への朝廷と幕府の対応をひもときながら、政治と外交に天皇が直接関与する物語を紹介している。
光格天皇~天明の飢饉と新嘗祭
光格天皇は1780(安永8)年、9歳で即位した。その三年後の浅間山の噴火により、天明の大飢饉が起こり、1787年、京都で大規模なお千度まいりが起こる。幕府の失政に失望した民衆が京都御所に大挙したのである。光格天皇は、関白、武家伝奏を通じて、幕府に窮民救済を文書で手渡す。大政委任の先例を崩す画期的なできごと。その後、外交問題について、朝廷の存在が大きくなる端緒となった。
もうひとつの顔は、日本国の君主という自意識。神のご加護により天下泰平を維持するという君主像である。現在、もっとも重要な宮中祭祀となっている新嘗祭は、戦国時代の1463年を最後に中断していた。これを復活させ自ら執り行った。
王臣と外交
徳川の歴代将軍の統治権は誰から預かったものなのか。天なのか、天皇なのか。本居宣長は1787年に執筆した「玉くしげ」で、朝廷は天下のまつりごとを徳川将軍に預け、将軍は大名に預けていると説いた。天明の大飢饉、大名の財政危機、ロシアとの軍事的緊張などが重なり、朝廷の権威を頼る向きが、大名、公家の双方に生じる。鍋島藩、水戸藩などと公家との婚姻関係は、朝廷と幕藩との共通意識を醸成していったのである。
孝明天皇~尊皇攘夷と開国、明治維新
孝明天皇は1846(弘化3)年、16歳で即位している。光格天皇の方針を引き継ぎ20年の激動の時代を過ごした。日米和親条約、日米通商条約など、開国をめぐって国内が二分する時期に、公武合体、大政委任の枠組みを守りながら、尊皇攘夷を追求しようとした。しかし、井伊大老を中心に、朝廷の異論を聞き入れずに通商条約を次々と調印するなかで朝廷の求心力を下げてしまい、1867(慶応2)年突然の死を遂げた。
ペリー提督が来日した1853(嘉永6)年、孝明天皇の下で関白を務めた鷹司政道は開国論者であった。往古は諸外国との交渉をもっていたし、戦争よりは貿易で利益を得るべきだと。50歳も年上の経験豊富な関白の存在は大きかった。このとき朝廷は、万民安楽と宝祚長久を祈るよう、七社七寺に命じている。伊勢、岩清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日。仁和寺、東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺、東寺、広隆寺。神仏こそ、朝廷がもつ大きな力であった。
最後に生前退位された光格天皇のことを知りたくて選んだ一冊。在位37年、46歳のときであった。その後院政を24年続けた。皇室の幅広いご活動を学ぶとき、幕末の天皇像を知ることは理解に深みを与えてくれる。
経済官庁 ドラえもんの妻