孝明天皇~尊皇攘夷と開国、明治維新
孝明天皇は1846(弘化3)年、16歳で即位している。光格天皇の方針を引き継ぎ20年の激動の時代を過ごした。日米和親条約、日米通商条約など、開国をめぐって国内が二分する時期に、公武合体、大政委任の枠組みを守りながら、尊皇攘夷を追求しようとした。しかし、井伊大老を中心に、朝廷の異論を聞き入れずに通商条約を次々と調印するなかで朝廷の求心力を下げてしまい、1867(慶応2)年突然の死を遂げた。
ペリー提督が来日した1853(嘉永6)年、孝明天皇の下で関白を務めた鷹司政道は開国論者であった。往古は諸外国との交渉をもっていたし、戦争よりは貿易で利益を得るべきだと。50歳も年上の経験豊富な関白の存在は大きかった。このとき朝廷は、万民安楽と宝祚長久を祈るよう、七社七寺に命じている。伊勢、岩清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日。仁和寺、東大寺、興福寺、延暦寺、園城寺、東寺、広隆寺。神仏こそ、朝廷がもつ大きな力であった。
最後に生前退位された光格天皇のことを知りたくて選んだ一冊。在位37年、46歳のときであった。その後院政を24年続けた。皇室の幅広いご活動を学ぶとき、幕末の天皇像を知ることは理解に深みを与えてくれる。
経済官庁 ドラえもんの妻