指揮者としてチャイコフスキーから天才と称される
手始めは当時オーストリア公爵領ライバッハと呼ばれていた、現在はスロベニアのリュブリヤナの州立劇場の指揮者となり、指揮をしつつ、ピアニストとしても活躍します。そのあとは、モラビアの小さな町オルミュッツの王立市民劇場の常任指揮者となり、その次はカッセルの王立劇場の第二常任指揮者、さらにはプラハのドイツ劇場の第二常任指揮者、26歳の時にはライプツィヒの劇場の第2常任指揮者となった後、ブダペストの王立ハンガリー・オペラの芸術監督として10年の契約を結びます。言語が入り乱れ、混乱していたハンガリーのオペラ上演を、演出にまで立ち入って、猛烈な回数のリハーサルをこなし、立て直し、幅広いオペラのレパートリーの上演に骨を折りますが、同時に、ライプツィヒ時代に完成していた自作の交響曲第1番「巨人」の初演にも、こぎつけます。
質の高い演奏を目指すために、容赦なく専制的な指揮者であり、リハーサルの鬼であったマーラーはどこでも毀誉褒貶が激しく、ブダペストとも決別して、北ドイツのハンブルクへ向かいます。当時ベルリンに次いでドイツ第2の大都市だったハンブルクの聴衆は質が高く、マーラーは高く評価されます。ハンブルク時代、自作のオペラのドイツ初演に来ていたチャイコフスキーも、マーラーの指揮ぶりを見て、「彼は天才だ!」と評価しています。ここでロンドンへの海外公演など、6年の充実した活動を行ったマーラーでしたが、この時期の彼のイメージは完全に「優秀なオペラ指揮者」であって、誰も彼を作曲家としては見てくれなくなりました。
そこで、彼は自分が「刑務所の強制労働」と呼ぶ歌劇場の指揮者の仕事の合間に、厳密な時間管理のもと、作曲家としての活動を再び始めます。オーストリアのアッターゼー湖畔の集落シュタインバッハにちいさな作曲小屋を建てたマーラーは、自然の中を散歩しながら、すでに作りつつあった第2交響曲を完成させ、同時に、もっと大規模な「交響曲第3番」を作り始めるのです。