元気がないとき、体が冷え切ったとき、夏バテしたとき、一杯の滋養豊かなスープに救われることがある。「ディア・ピョンヤン」「愛しきソナ」「かぞくのくに」で知られる映画監督・作家のヤン ヨンヒもその一人だ。彼女のTwitterを読むと、ときどきおいしそうな「オモニ(母)のスープ」が登場し、「いったいどんな味なのだろう?」と想像をたくましくした。鶏をじっくり煮込んだスープだろうか、それともテールスープだろうか。
そんなある日、ヤンが次回作のタイトルを「スープとイデオロギー」(仮題)にすると決め、公益財団法人韓昌祐・哲(ハンチャンウ・テツ)文化財団の助成を受けることとなった。スープという言葉がタイトルに入っているからといっても、韓国料理の映画ではない。母が生まれた済州島(チェジュド)の悲しい歴史と母の人生をひもといていくのだという。
済州島で起きた知られざる「残虐」
日本ではあまり知られていないが、米軍政庁下の済州島で1948年4月3日から翌年6月までの間に推定2万5000人〜3万人(『済州四・三事件真相調査報告書』2003年10月確定)もの住民が大虐殺された「4・3事件」が起きている。この数字は、住民の10分の1に当たると言われる。日本の植民地支配から解放された後の政情不安定な時代とはいえ、米軍政の強圧行政とそれを支持する右翼勢力に対し蜂起した島民を、軍政や警察が残虐に殺したのである。武装蜂起に携わった島民ばかりではない。女子供も老人も手当たりしだいに殺された。それを若かったヤンの母は目撃した。
「私の母は大阪生まれですが、15歳のときにアメリカ軍の空襲から逃れて祖母の故郷だった済州島に疎開し、18歳のときに悲劇に遭いました。母は小さな妹をおぶい弟の手を引いて、港まで30キロメートルも歩いて密航船に乗り、日本に戻ってきたのです。そのとき、死体の山や、人の血で真っ赤になった川を見たそうです」
母は長いこと、当時のことを娘に語ろうとはしなかった。だからヤンは「4・3事件」を母が経験していたとは知らなかったという。共産暴徒鎮圧を大義名分に行われた虐殺の悲劇を、文在寅大統領が国家の暴力として認めた時、何気なく母にそのことを伝えた。
「そうしたら『オモニもあそこにおったんや』と言うので、腰が抜けるほど驚きました。母はつらい記憶をずっと自分の中で蓋(ふた)をして閉じ込めてきたんです」
ヤンは父のことを「ディア・ピョンヤン」でドキュメンタリーにし、監督としてデビューした。朝鮮総連の幹部として北朝鮮に忠誠を誓い、3人の息子を帰還事業で北朝鮮に送り出した父。金日成(キム・イルソン)を崇拝し、韓国のことを毛嫌いする母。だが息子たちは父の言いつけ通りに渡った北朝鮮で大変な苦労をする。一人だけ日本に残ったヤンは、両親には常に批判的な目を向けてきた。
「私は父親っ子で、思い込みが激しいところのある母とはあまりうまくいっていませんでした。でも、当時あそこに私がいたとしたらどういう人生だったろうかと思うようになったのです。もしかすると、そんな悲劇の中、きょうだいを連れて密航船で逃げてきた母は、すごくバイタリティのある勇敢な女性だったのではないかと」