指揮者だからこそ「交響曲作曲家」たりえた
交響曲は、言葉に寄りかかっていません。言葉での表現を廃しているからこそ、音楽だけによる哲学の表現ができる・・・マーラーは総タイトルや楽章に名前を付けたこともありますが、誤解を受けるとして、すべて削除してしまったりしています・・・いわば、ベートーヴェンの「圧倒的な音の構造物」だけで哲学を述べる、フォロワーといえましょう。しかもこの両者は、交響曲をさらに発展させようと試みたのです。
自由に展開させて、あとから改定を繰り返すブルックナーに対し、「指揮者」マーラーのアプローチは違っていました。彼は冷静な計算のもとにオーケストラを率いてゆくリーダーでしたから、当然「スコア(総譜)」が頭に入っていて、最初から最後までのプラン通りに、音楽を表現してゆく人でした。ベートーヴェンのあの魅力的な交響曲の音世界を超えるには、さらにもっと壮大な思想性をもって、しかも、圧倒的な結論に達しなければならない・・・そう、マーラーは、シューベルトがあまり成し遂げることができず、ブルックナーは端から重要視しなかった、「壮大なエンディング」を念頭に置いたうえで、用意周到に交響曲を組み上げてゆく、という方法をとったのです。物語が延々と展開する「楽劇」よりも、一つの結論に向かって突き進む「交響曲」というジャンルが、自分の作曲には向いている、とマーラーは判断したのもそのあたりではないでしょうか?ベートーヴェンや、ブルックナーが「前から」作ったのに対し、マーラーはいわば「後ろから」計画をしていったとも言えます。それも、彼が何より演奏家としては「指揮者」だったということに関連しているといえましょう。演奏会では棒を振り回すだけで「1音も演奏しない」指揮者ですが、マーラーは、だからこそ、「交響曲作曲家」たりえたのです。
本田聖嗣