ウィーンに登場した2人の音楽家
ベートーヴェン時代のスタイルを保ったまま・・・つまり意地悪な言い方をすると、それを発展させることなく、むしろ保守的に守って交響曲を書いた作曲家がロマン派の時代に主にドイツにあらわれた後、ベートーヴェンゆかりの地、ウィーンにブルックナーが現れます。彼はオルガニストだったので、やはり即興の名手でした。ロマン派の時代、演奏家と作曲家が分離して、ピアニストはもはや作曲せず、他人の作品を弾く「再現演奏家」になりつつあったのに対し、オルガニストはいつも教会の中で、ミサの度に、あるモチーフを使って即興演奏をしなくてはならないのです。そんなブルックナーは、交響曲をコツコツと作りためたのですが、構造物を練り上げるというより、旋律が自由に展開してゆく、という方式をとったのです。それは、初めてベートーヴェンの呪縛から逃れたといってもよいかもしれません。現在でもブルックナーは「長大な交響曲を書いた人」として認識されますが、彼はいくつもの自作の交響曲を何度も何度も改定していることから見ても、最初の作曲の時には、自由な楽想とともにひたすら音を紡ぎだし、後から構造物としての交響曲の形を整える、という作業をやりたかったとも推測されます。
そして、同じウィーンに遅れてマーラーが登場します。マーラーの音楽家としてのキャリアの出発点は、「歌劇場の指揮者」でした。同時代の人は、作曲家としてよりも、指揮者としてマーラーを見ていました。もちろん、「金にならない」作曲家では生きていけないので、あふれる音楽的才能を、「オーケストラの団員を率いて音楽を作り上げる」指揮者として発揮したマーラーの選択肢は間違いではなく、彼は、名門ウィーン国立歌劇場の指揮者にまで上り詰めます。
そして、彼の得意とするレパートリーは、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナーでした。マーラーは指揮者としては、19世紀の音楽シーンを支配したワーグナーの作品の最大の理解者で、その練習ぶり、演奏会でのエキサイティングな指揮振り、生み出される音楽は、多くの人に称賛されていまし、彼の下で学んだブルーノ・ワルターなど、名指揮者に受け継がれています。ちなみに、ブルックナーもワーグナーを崇拝しており、自作を見せに行っています。当時の欧州の楽団は、楽劇を信奉するワーグナー派と、対立する器楽派のブラームス派、という風に分かれていました。
音楽的には疑いなくワーグナー派であったブルックナーやマーラーが、自らの創作では「交響曲」を志向した、というのも興味深い点です。