(先週から続く)ベートーヴェンが作り出した一連の交響曲は、それ以前の、ハイドンやモーツァルトといった作曲家たちの作品と違う点が多々ありました。楽器の発展などによって編成が大きくなった・・たとえばクラリネットというのは新しい楽器でしたから、モーツァルトも最後期の作品にしか取り入れていませんが、ベートーヴェンは普通に使っています・・・という、時代による変化もあります。革命以前の宮廷文化の中で作られた「楽しみのための」交響曲と、欧州の旧体制が壊れていく時代の市民作曲家であり、さらには、耳が不自由という決定的ハンデを抱えたベートーヴェンのすさまじいまでの自己表現が色濃く反映された交響曲では、いわば「迫力が違った」のです。
ベートーヴェンの作品は圧倒的だった
ベートーヴェンは、元の職業である「即興ピアニスト」の特徴を生かし、小さなモチーフやメロディーを複雑に組み合わせて展開し、ひとつの壮大な構造物を作り上げるというやり方で、交響曲を編み上げました。そのため、その最初の小さなモチーフに、交響曲全体のエッセンスが集約されているという場合もあります。有名な第5番「運命」の「ソソソミー、ファファファレー」という冒頭のごく短いメロディーは、それだけで、「運命」を感じさせ、21世紀になった現在でさえ、バッハの「トッカータとフーガ」の冒頭と並んで、もっとも有名なクラシックのメロディーとなっています。
ベートーヴェンの圧倒的な構造を創造する力は、彼のフォロワーたる交響曲作曲家たちを悩ませ、シューベルトは、メロディーメーカーだったものの、終楽章を生み出せず「未完成」というような交響曲を残し、他方、ベートーヴェンの「第九」から、言葉と音楽の融合を読み取った作曲家たちは、文学的要素を入れ、楽章を廃した「交響詩」に向かう一派や、そもそも交響曲から離脱し、「オペラ」「楽劇」の要素に向かう人たちを生み出しました。乱暴な言い方をすれば、音楽の内容の半分を芝居や文学任せにしてしまう、ということで、それだけ「交響曲という音楽だけで哲学を述べた」ベートーヴェンの作品は圧倒的でした。
第九の終楽章をのぞいて言葉などは一切使っていない、タイトルも第六番の「田園」以外にもほぼ付されていない・・・「英雄」や「運命」はいわばあだ名です・・・のに、圧倒的な思想性、もしくは哲学を持った音楽がそこにはある。作曲家たちは、いつの時代もベートーヴェンを尊敬し、それを超える交響曲を生み出そうと苦労します。