タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
"毒"のない時代になったと思う。
日常生活の中で最優先されるのが"健康"で最も敬遠されるのが"身体に良くない事"だろう。街中のそこここに見られるのが"抗菌"で食品でも雑貨でも人体に"無害"であることが強調される。集団生活で重んじられるのは何よりも"和を乱さない事"だ。テレビで溢れる"笑い"にしても"毒舌"は際物扱いされてゆく。平成の30年余りは様々な形で"毒気"を抜かれてゆく時間だったのかもしれない。
この蜜がまさか毒なのでは...
令和元年(2019年)5月27日、去年不惑の40歳を迎えた椎名林檎がデビュー20周年の記念日に発売するアルバムのタイトルは「三毒史」である。もちろん、中国の歴史物語「三国志」のもじりになるのだろうが、そのことはどうでもいい。オフィシャルのライナーノーツによれば、彼女が使っている"三毒"というのは、"貪欲"(どんよく)"瞋恚"(しんい)、"愚痴"(ぐち)を含む仏教の煩悩、言葉を換えれば"むさぼり""いかり""おろかさ"を表す言葉だという。
克服すべきとされる煩悩をタイトルにして更に"史"をつける。そこに彼女自身の20年というキャリアと40年という人生を重ねることも可能だろう。
アルバムは衝撃的に始まった。
冒頭に流れるのは般若心経の読経である。しかもそれに呼ばれるかのように流れてくるのがDJのスクラッチと打楽器と管弦楽器が醸し出す壮大なシンフォニーだ。クレジットされているミュージシャンは総勢31人。曲のタイトルは「鶏と蛇と豚」。タイトルになっている「三毒」をそれぞれ象徴する動物なのだという。1分あまり続いた演奏に続いて聞こえてくる歌の歌詞は英語だ。彼女のアルバム特有のデザインされた歌詞カードには英語と日本語が載っている。日本語詞には、こんな歌詞があった。
「はじめは確かに好ましく感ぜられたこの蜜がまさか毒なのではあるまいか」
蜜と毒。一見正反対に思える二つがどこかで入れ替わる。蜜はいつしか毒になって違う意味を持つ。正と邪、光と闇、新と旧、孤と番(つがい)、夢と現、理性と欲望、有限と無限、自由と不自由、そして、生と死――。
いくつもの対立概念がめくるめく万華鏡のように息もつかせず曲つなぎで連なって行くトータルアルバムはそうやって始まった。
曲順も「孤」と「番」
アルバム「三毒史」には、大きな特徴がある。それはアルバム13曲中6曲までが男性のアーティストと歌うデュエットアルバムという点だ。いきなり「この世は無常」と始まっている最初の日本語詞曲、2曲目の「獣ゆく細道」はエレファントカシマシの宮本浩次。去年の「紅白歌合戦」で歌われた先行シングルは、このアルバムの序章だったことになる。
「正反対の番同士」が主人公の4曲目「駈け落ち者」はBUCK-TICKの櫻井敦司だ。ロックもラップも入り乱れた6曲目「神様、仏様」は、ミクスチャーバンド、ZAZEN BOYSの向井秀徳、「女盛り」と季節を重ね合わせた8曲目「長く短い祭」は、元東京事変の浮雲、メディアや業界に対しての批評と思える10曲目「急がば回れ」は、ワールドツアーも経験していたジャズバンドPE'Zのヒイズミマサユ機、銀座が登場する「日本の夏」、12曲目「目抜き通り」はウルフルズのトータス・松本という具合だ。
わざわざ曲順を書いたのは、アルバムの偶数曲がデュエットで奇数曲が彼女自身。そこにも「孤」と「番」というテーマがあるように思ったからだ。彼女は、ライナーノーツの中でデュエット曲について「全ての収録曲は唄い手を含む演奏家への当て書きのつもりです。ご参加くださった方々ありきの必然で成り立ってます」と話している。
どんな男性と一緒に歌うか。その男性と表現してみたいのはどういうテーマなのか。そこには彼女の「妄想」もあるのかもしれない。一人では歌えない曲調やドラマ性。そうした曲がau携帯電話やコカ・コーラ、銀座の商業施設GINZA SIXなどのCMタイアップというせいもあるのだろう。それぞれに2019年という時代の様相が反映されている。そして、可憐なフランス語も混じる奇数曲「マ・シェリ」は鏡をテーマにした女性ならではの自問ソング。やはり奇数曲の「至上の人生」には、「生きていること」の「至上の安らぎ」と「至上の苦しみ」が歌われていた。
女性にとっての「宇宙」
アルバムのオープニングとエンディングが「対」になっているのも彼女のアルバムの一つの形だろう。英語曲「鶏と蛇と豚」の般若心経で始まったアルバムのはやはり英語曲「あの世の門」で終わっている。彼女にとって初めてという海外録音はブルガリア。ライナーノーツによると「民俗音楽を背景に教会音楽やカンタータ、オラトリアなどの古典音楽と現代音楽をクロスオーバーした活動を展開しているブルガリアを代表する女性聖歌隊」のコーラスとともに終わっている。彼女が生後まもなく発覚した先天性の病気で生死の淵をさまよった時の記憶が書かれているという。
やはりライナーノーツの中にこんなコメントがあった。
「ひと頃までは繰り返し夢で見ていた光景なのに、いつの間にか見なくなり、記しておくべきかもしれない気がしたのと、本作の制作意図がちょうど合致したのだと思います。アルバムのラストに恐らく最も古いであろう記憶が描かれるのは、時系列上、逆さまなようですが、あらゆる意味で今は納得できています」
英語曲「あの世の門」の日本語詞にこんな一節があった。
「わたし自身が宇宙そのもの 時間さえ丸ごと包んでいる」「果てしない観念こそ全体で この外には何の要素もない」「わたし自身が起源そのもの 凡そ総てを兼ね備えている」「果てしない永遠がただ一つ この中には何の境界線もない」
ロックの歌詞の中に「宇宙」という言葉が登場するのは珍しくない。
ただ、男性が使う「宇宙」は、遥か彼方に無限に広がる空間というイメージがほとんどだろう。自分の「内」か「外」で言えば「外」だ。この歌はそうでなかった。「宇宙」は「わたし」である。わたしの「中」にある。「外」には何の要素もない。女性にとっての「宇宙」というのをこんな風に明快に歌った曲は多くないのではないだろうか。そこには「何の境界」もない。全ての対立概念が調和して均衡が保たれている。やはり日本語詞の中にこんな言葉がある。
「貧も瞋も癡も薬もない」
それが母性の永遠ということなのかもしれないと思った。
(タケ)