今週は、マーラーの初期の交響曲を取り上げようと思っていたのですが、まず、「交響曲」というジャンルについて考えてみたいと思います。
クラシック音楽のCD売り場・・・最近は随分とCDショップ自体がなくなりましたし、売り場面積も縮小されましたが・・・に行くと、一番目立つところにおいてあるジャンルが、ほとんどどこのショップでも「交響曲」です。
ベートーヴェンは交響曲の「完成者」
「音楽の父」ことJ.S.バッハは交響曲がまだ成立する前のバロックの人でしたが、彼の息子の世代とほぼ同じころ、「交響曲の父」ハイドンが現れ、ハイドンの生涯に含まれる形で「天才」モーツァルトが現れ、そして、その少し下の世代にベートーヴェンが登場します。広く知られているように、「英雄」「運命」「田園」「合唱付き」などの副題でも呼ばれる斬新な交響曲を残したベートーヴェンは、間違いなく、交響曲の改革者であり、革命家であり、そして、ある意味完成者でした。生涯最後の交響曲第9番の最終第4楽章に合唱を入れたことによって、ものすごく達成感のある、大きく複雑な構造の音の森を作り上げ、聞き終えた後の充実感、カタルシスを味わえるために、日本の年末の風物詩、といってよいぐらい12月には日本各地で演奏されます。最近では本場ドイツでも年末に「第九」が演奏されることが増えてきたそうです。
ベートーヴェンが、クラシック音楽のあらゆる形式の中でも「交響曲」という、管弦楽によるソナタ形式を持つ、複数楽章からなる大規模な曲を、自分の内的な思想が語れるもっとも重要な形式として提示したために、現在でも、交響曲はクラシック音楽を象徴する存在です。「楽聖」として神聖化された感のあるベートーヴェンに対して言いにくいのですが、私は、彼がメロディーメーカーとしては、モーツァルトやロッシーニにかなわないと自覚していたので、短いメロディーを幾重にも展開させて構造的迫力をもった交響曲という分野が自分に向いていることを自覚していた、とも考えます。30歳ごろまでは、その場で変奏曲を作り出す「即興ピアニスト」をしていた、ということも関連があるでしょう。そうして、彼はある時は下書きのような作品を作ることさえして、「交響曲」というジャンルにすべてを注ぎ込んだのです。
しかし、困ったのは、「ベートーヴェン以後」の作曲家たちでした。世の中に認めてもらうには、交響曲を作らなければならない、同じソナタ形式をもった曲でも、ピアノソナタや、ヴァイオリンソナタ、室内楽の弦楽四重奏やピアノ三重奏をいくら書いても、交響曲を書かなければ一人前ではない、と世の中に思われてしまう・・・この呪縛は、多くの作曲家を苦しめたはずです。実際、交響曲または交響曲的な作品に見向きもせず、このジャンルを全く作ろうとしなかった作曲家で歴史に名を残したのは、「ピアノの詩人」F.ショパンぐらいであり、結果的に作品を残すと残さざるにかかわらず、他のほとんどの作曲家が生涯に一度は「交響曲」または「交響曲的作品」にトライしています。
自ら台本を書いてオペラで一時代築いたワーグナー
これほどまで、交響曲という形式が作曲家を縛ったのは、なぜなのでしょうか? その答えは彼以後の作曲家それぞれの場合によって異なりますが、ベートーヴェンが作り上げた究極の9曲、特に第3番以降の革新的交響曲が、作曲家の内面や思想を、構造的に練り上げられた音だけの世界で、圧倒的に語ることができるから・・・と多くの作曲家が考え、同時に聴くほうの聴衆も感じたからなのかもしれません。ベートーヴェンが活躍した古典派の時代は、宮廷内部ではまだ「催し物を盛り上げる存在」としての音楽が主流でしたし、街で上演されるオペラはエンターテインメント性が問われました。そんな中で、ベートーヴェンは純粋な器楽の中でもっとも大規模な編成である「オーケストラ」を使って、人々に自分の哲学を感じてもらうことができたのです。彼は哲学書を読むのが趣味でしたし、欧州が革命と戦争に揺れた時期の作曲家だったので、常にそういったことを考えていたのです。そして、9曲の傑作を作り上げたために、以後の作曲家が、ベートーヴェンのようになりたい、彼のように「交響曲」を書いて、世に問うて、作曲家として認められたいと考えざるを得なくなったのです。
しかし、掟破りの「合唱」まで第4楽章に参加させて、圧倒的かつ革新的な「交響曲 第9番」を作り上げたベートーヴェンを超えるのは並大抵ではありませんでした。仕方なく、というべきでしょうか、後世の作曲家たちは、交響曲にいくつかの工夫をしてゆきます。
ざっくり、いくつかの傾向があります。ベートーヴェンの故郷であるドイツの、彼のあとに続くドイツロマン派の作曲家たち、例えば、メンデルスゾーンやシューマン、そして自他ともベートーヴェンの後継者とみられていたブラームスなどは、交響曲により親しみやすい要素を入れて交響曲を「自分の哲学的な思想を述べるだけでなく、自然の美しさなどより身近に感じてもらえる楽想を入れ、納得して聴いてもらえるもの」にしようとした努力の跡が見られます。しかし、彼らはいわばベートーヴェンの作り上げた交響曲の構造の忠実なフォロワーであり、交響曲自体の構造改革には手を付けませんでした。
また、隣国フランスのベルリオーズ、ハンガリー生まれのリスト、ドイツのリヒャルト・シュトラウス、といった人たちは、ベートーヴェンが第九で交響曲に入れた「言葉」を重視し、すでに存在する文学作品を音で表現するような形式「交響詩」を作っていきます。いわば、交響曲に、作曲家の思想だけでなく、文学者の書いた「物語」を背骨として取り入れていこうとしたわけです。この系譜に、R.ワーグナーもいますが、彼は、交響曲という純粋器楽音楽からは離れ、自ら台本も書いて「楽劇」と呼んだオペラの世界で一時代を築きます。
シューベルトは交響曲が少し苦手だった
上記2つの系譜以外にも、ベートーヴェンの活躍した「音楽の都」ウィーンでは、また別の系譜がありました。ベートーヴェン崇拝を明らかにし、その葬式に出たことが原因で自らも早死にしたといわれるシューベルトや、その後時代が下ってブルックナーやマーラーといった「交響曲作曲家」が現れるのです。この人たちは、ベートーヴェンの作り上げた巨大な交響曲という器を、形式的な形を変えすぎずに、どうやって発展させようかと悩む人たちでもありました。シューベルトは、敬愛するベートーヴェンの交響曲的世界に挑みましたが、本質的に歌曲や室内楽の佳作を生み出すメロディー作成能力に長けていた一方、巨大な音楽構造物である交響曲は少し苦手だったらしく、「未完成」という、終楽章を持たない交響曲も生み出してしまいます。ドイツ出身ではあるが、ウィーンで活躍して、フランス語もある程度できた国際人ベートーヴェンの人間的思想・・・彼は驚くほど進歩的知識人で、決して同時代の貴族たちにも卑屈な態度をとらなかったことで有名です・・・を、ウィーンからほとんど出たことのなかったシューベルトは、哲学的思想で上回ることは難しかったのかもしれません。
ロマン派の時代に入り、伝統的な楽章の形態をとらず、文学作品を背景とする「交響詩」というジャンルがリストによって登場し、一方、人々の日々の音楽の消費は芝居と音楽の融合である「オペラ」が中心である時代がやってきました。ところが、ここにブルックナーとマーラーという2人が現れます。彼らは熱心なワーグナー・ファンでしたが、ワーグナーが見向きもしない純粋管弦楽作品である「交響曲」のジャンルに果敢に挑むのです。
もちろん、彼らの前にも、当然ベートーヴェンの残した交響曲は立ちはだかります。(次回につづく)
本田聖嗣