シューベルトは交響曲が少し苦手だった
上記2つの系譜以外にも、ベートーヴェンの活躍した「音楽の都」ウィーンでは、また別の系譜がありました。ベートーヴェン崇拝を明らかにし、その葬式に出たことが原因で自らも早死にしたといわれるシューベルトや、その後時代が下ってブルックナーやマーラーといった「交響曲作曲家」が現れるのです。この人たちは、ベートーヴェンの作り上げた巨大な交響曲という器を、形式的な形を変えすぎずに、どうやって発展させようかと悩む人たちでもありました。シューベルトは、敬愛するベートーヴェンの交響曲的世界に挑みましたが、本質的に歌曲や室内楽の佳作を生み出すメロディー作成能力に長けていた一方、巨大な音楽構造物である交響曲は少し苦手だったらしく、「未完成」という、終楽章を持たない交響曲も生み出してしまいます。ドイツ出身ではあるが、ウィーンで活躍して、フランス語もある程度できた国際人ベートーヴェンの人間的思想・・・彼は驚くほど進歩的知識人で、決して同時代の貴族たちにも卑屈な態度をとらなかったことで有名です・・・を、ウィーンからほとんど出たことのなかったシューベルトは、哲学的思想で上回ることは難しかったのかもしれません。
ロマン派の時代に入り、伝統的な楽章の形態をとらず、文学作品を背景とする「交響詩」というジャンルがリストによって登場し、一方、人々の日々の音楽の消費は芝居と音楽の融合である「オペラ」が中心である時代がやってきました。ところが、ここにブルックナーとマーラーという2人が現れます。彼らは熱心なワーグナー・ファンでしたが、ワーグナーが見向きもしない純粋管弦楽作品である「交響曲」のジャンルに果敢に挑むのです。
もちろん、彼らの前にも、当然ベートーヴェンの残した交響曲は立ちはだかります。(次回につづく)
本田聖嗣