「つま恋」の前に3万人野外コンサート
彼は、74年から10年間、大阪球場でのライブを続けている。野球場が最初にコンサートに使われたのは、ザ・タイガースの後楽園球場である。ソロアーティストの球場コンサートとしては西城秀樹が最初だった。ソロの武道館公演も75年の彼が初めてだ。武道館を経由しないでのいきなりの球場コンサートがどれだけ大変だったか想像するのはたやすい。10年間続いた野外コンサートは80年代後半からの渡辺美里の西武球場と南こうせつの「サマーピクニック」くらいだろう。それより10年以上前だ。
75年には富士山特設野外ステージで3万人を集めた野外ライブを行っている。吉田拓郎とかぐや姫の「つま恋コンサート」の2週間前だ。しかもその時の全国縦断ツアーのファイナルが大阪球場だった。その模様は5月16日にWOWOWで放送される当時のドキュメンタリー映画「ブロウアップ・ヒデキ」に残されてはいる。でも、それだけの規模のライブの全貌や事実関係が十分に記録されているとは到底言い難いのではないだろうか。
なぜ改めてそんなことを書いているかというと、かなりの忸怩たる思いもあるからだ。そうしたコンサートを取材していたのは芸能週刊誌やテレビが主体だったはずだ。音楽雑誌もまだ数えるほどで"あっち側"のメディアしか取り上げていなかった。ラジオもそうだったと思う。筆者も見ていない。
今更、そんなことを言っても始まらないのだろうが、本来同じ流れの中で語られるべきことにも関わらず、そうなっていなかった。
2012年の40周年の時に「絶叫・情熱・感激」というCD+DVDの5枚組BOXが出ている。発売元のソニー・ミュージックダイレクトの担当者が、ブックレットで「自分が隠れヒデキ」であることをカミングアウトしていた。
彼は岡山の中学生の時にテレビで見た西城秀樹の情熱的な歌いっぷりに衝撃を受けてファンになった。でも、当時は学校でも吉田拓郎やユーミンが主流で男の子が好きとは言いにくい時代だった。大学に入って放送研究会に入ったらなおさらで、周りはニューミュージックや洋楽ファンばかりで「アイドルが好き」などと言おうものなら冷笑されるだけだった、と明かしていた。もし、彼がロッカーとして認知されていたら"隠れず"に済んだかもしれない。
今はどうなのだろう。
日本のロック史の中での西城秀樹という視点はどのくらいあるのだろう。
もう"あっち側"も"こっち側"もない。
伝説は語られてこそ伝説になる。
それは"隠れヒデキ"も含めて、残されたファンが綴るべきものなのではないだろうか。
(タケ)