「さよなら平成・3」
タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
平成になってから始まったストーリーに"路上"がある。ストリートライブ。まだデビューしていないバンドや歌い手が道端で歌い始める。それは昭和はもちろん、平成の初期には見られなかった光景だった。
そのパイオニアになったのが98年デビューのゆずだ。北川悠仁と岩沢厚治。横浜の小学校からの幼馴染み。中学の時に組んでいたバンドが解散し4人組だったバンドから2人になった。横浜のデパートの前でのライブが評判になり、最後は7000人にも膨れ上がった。
平成最初のバンドブームの舞台の一つに代々木の歩行者天国があった。ただ、"ホコ天"はそこに行くことが一つのイベントであり"舞台"だった。
彼らは"地元"で行っていた。自分の住んでいる街で好きな時に歌い始めるという自由なアマチュアリズムは全国に広がった。2001年にメジャーデビューしたコブクロや2006年のいきものがかりもそんな流れの中で登場した。
自分たちが生きる場所で
いきものがかりのツアーの取材をしていて感心したことがあった。そこがどんな大会場であっても自分たちの出会いや成り立ちから説明する。その理由を「路上では足を止めて僕らを見てくれている人の向こうをその何十倍もの人が通り過ぎている。いつもその人たちに向かってライブをやってるつもりです」と言った。路上出身のアーティストがメジャーになっても変わらないのは、そこに要因があるのだと思った。
そういう新しいストーリーの中に"沖縄"もある。
MONGOL800という耳慣れないバンドのアルバム「MESSAGE」がオリコンのアルバムチャートで目にするようになったのは2001年になってから。沖縄の大学生バンドは活動の拠点を変えようとしなかった。2003年にデビューしたのが東屋慶名(ひがしやけな)という地名をバンド名にしたHYだ。北谷でストリートライブを行っていた高校生のバンド。彼らの二枚目のアルバム「Street Story」はインディーズのままアルバムチャートの一位、ミリオンセラーとなった。同じ時期に登場したオレンジレンジは9作連続の一位を記録した。90年にデビューしたBEGINも2000年代に入ってから自分たちのルーツの「島唄」に目を向けるようになった。
供給源としての沖縄ではなく、自分たちが生きる場所としての沖縄。音楽シーンの中では上京苦労話は過去のものになりつつある。
前号で触れたライブの"質的変化"を象徴しているイベントが2005年に始まり今も続いている「ap bank fes」だ。
音楽プロデューサーの小林武史とMr.Childrenの桜井和寿が「一人の生活者として未来のために何か出来ないか」と発足した非営利組織のap bank。環境問題に地道に取り組んでいる団体に低利子で融資する。その原資のためのイベント。一回目には井上陽水や浜田省吾ら、通常のフェスとは距離を置いていたアーティストも参加していた。
音楽に何が出来るか。
そうした意識に決定的な影響を及ぼしたのが2011年の東日本大震災だった。ツアーは中止、工場が被災してCDも作れない。楽器を置いてボランティアで参加したミュージシャンも少なくなかった。何らかの形でチャリティー活動に加わらなかった人はいなかったのではないだろうか。原発事故は電気楽器の意味も考えさせた。今も岐阜県中津川市で行われている野外イベント「SOLAR BUDOKAN」はシアターブルックのギタリスト、佐藤タイジが2012年に自然エネルギーだけで武道館コンサートを成功させたことから始まっている。
あそこから何が変わったのか、その答えが出るのはまだ先になるのかもしれない。