地に足のついた生き方をしなければ
そうした"質的変化"の背景にはそれぞれのバンドやアーティストの成長と同時に世の中の出来事があった。
2001年9月11日。マンハッタンの同時多発テロと2003年に起きたイラク戦争。GLAYのTAKUROは「物心ついてから初めて経験する戦争」という言い方をした。彼は「朝日新聞」に自費の全面広告を載せ反戦サイトを立ち上げた。宇多田ヒカルや久保田利伸らも自身のブログなどでそうした意見を書いていた。ミュージシャンが世の中のことを語るのが憚られる日本ではかつてないほどの目立ちようだった。
もし、そうした空気がなかったら2003年3月に発売になったSMAPの「世界に一つだけの花」も"反戦歌"として社会現象化することはなかったに違いない。槇原敬之が彼らのアルバム用に書いたのはイラク戦争の開戦前、2002年の夏だ。先に書いた曲がボツになり急遽4日間で書かれたという。彼は、当時、筆者がFM NACK5でやっていたインタビュー番組「J-POP MAGAZINE」で「5人バラバラな個性を持つ花が一生懸命歌っているという、彼らにしか歌えない曲を書こうと思った」と話していた。
20世紀から21世紀へ。バブルの崩壊と同時多発テロで始まった21世紀。90年代の最初の年にデビューした彼の描く恋愛ストーリーは、バブルを謳歌するカップルたちの心を捉えた。次世代シンガーソングライターとして上り詰めた彼が不祥事で活動を休止しなければいけなくなり、活動を再開したのが2000年だった。
やはり2000年に発売された小田和正のアルバム「個人主義」の中に「the flag」という曲があった。彼は、東北大学を出た後に早稲田の大学院の建築科に学んでいる。この頃の友人の多くが建築関係の仕事についていた。「ラブソングの教祖」と呼ばれた彼が、50代に差し掛かってバブルの崩壊に翻弄される同世代の友人たちに向けた歌。「できるならもう一度捜さないか」「戦える僕らの武器は今何かと」「僕は諦めない」と歌っていた。
SMAPが歌った「世界に一つだけの花」がヒットした背景には、そうした時代の空気もあったのだと思う。世の中のことをもう一度考えないといけない。地に足のついた生き方をしなければいけない。「人生に意味のあるポップスを書きたい」というのが槇原敬之がことあるごとに口にする言葉だった。彼は、こんな話もしていた。
「僕が歌うと日曜の早朝に神父さんがラジオでしゃべるようなある種、説教臭い歌。あれだけのヒットになったのはひとえにSMAPのおかげ」
SMAPの結成は実質的な昭和最後となった1988年。その後の彼らの作品にはまだ評価される前や一線から退いてしまった才能ある作家が数多く起用されている。従来のアイドルとは違う音楽的変遷と社会的な存在感。「世界に一つだけの花」は、平成を象徴する一曲になった。
J-POPの"質的変化"。平成の30年余りは、音楽が最も豊かだった時代。J-POP黄金時代として残ってゆくのだと思う。
(タケ)