「さよなら平成・2」
タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
平成の30年余りの間にはいくつかのピークや転機となる時期があった。
それを"量的変化"と"質的変化"に分けることも出来る。外的な環境や条件が変わることによって起きた"量的変化"。その最たるものが99年から2000年代にかけてだろう。
アナログ盤からCDに切り替わることで起きた音楽への接し方。手に入りにくかった旧譜が廉価盤でCD化された。カラオケの普及は日常生活の中に音楽を浸透させた。より手軽により身近にという需要も作用しつつ空前のバブル状況を出現させた。宇多田ヒカルの99年のアルバム「First Love」が800万枚だったことは前回触れた。2000年に入ってからは緩やかな下り坂が続いている。
ただ、90年代末期から2000年代にかけてをそうした「量」でだけ語ることは意味がない。その中で変わって行った「質」について触れなければいけないと思う。
「いい曲」が売れた時代
それは平成に入ってからの傾向でもあった。"売れる曲"と"いい曲"の一致。"いい曲"が"売れる"。例えば、94年の年間チャートの一位はMr.Childrenの「innocent world」だ。95年の年間チャート一位がDREAMS COME TRUEの「LOVE LOVE LOVE」、OLの日々に沿った応援歌とも違う普遍的な愛。97年のGLAYの「HOWEVER」にしても季節や自然に永遠の愛を託したラブソングだ。彼らを知らなかった人が聴いても耳を傾けてしまう"いい曲"が売れた。「Pleasure」「Treasure」と二枚のベストアルバムで1000万枚を超えたB'zもそれまでのロックバンドにはなかった"演奏と曲"のバランスの良さがあってこそだ。ともすれば"いい曲は売れない"と言われるチャートではなくなった。宇多田ヒカル、椎名林檎、浜崎あゆみがデビューした98年。MISIAがデビューした99年以降の女性アーティストは"歌がうまくて当然"というハードルを越えなければいけなくなった。
そうした好況は、ライブの大規模化に反映された。CDの売り上げがライブの大規模化の土台になる。99年に松任谷由実が行った「シャングリラ」はサーカスやシンクロナイズドスイミングとフィギュアスケートをミックスした世界でも例のないステージになった。99年のGLAYの幕張メッセの野外イベント「SURVIVAL」は約20万人を集める世界最大のワンマンコンサートになった。ラルク・アン・シエルのお台場でのライブは二日間で約25万人を集めた。浜田省吾は99年から2001年まで全国三か所の野外イベントを含む足掛け3年のツアー「ON THE ROAD2001」を行った。全国に定着している夏フェスの多くがこの時期に始まった。平成は野外ライブの時代として語られるに違いない。
それは誰もがそういう意識になったということなのだろう。パソコンの誤作動や「ノストラダムス」も無事に超えた2000年。多くの名曲が誕生している。年間チャートの一位がサザンオールスターズの「TSUNAMI」だった。
短パンにタンクトップというおよそロックバンドとは思えないいでたちで「勝手にシンドバッド」を歌ってデビューした彼らの新境地。有識者に「日本語の乱れ」を嘆かせた彼らが「詞に一番時間をかけた」という曲。ミュージック映像はバンドのメンバーが若いカップルを見守るという設定だった。年間チャートの二位が福山雅治の「桜坂」だ。一時は俳優との両立に頭を悩ませていた彼がシンガーソングライターとしての存在を確立したバラード。中島みゆきの「地上の星」は、彼女を"中高年の星"に変えた。それぞれにとって2000年代以降を決定づけた曲が誕生している。