eclat 5月号の「パリのおいしい空気」で、料理人の狐野(この)扶実子さんが、一風変わった経歴のシェフを紹介している。パリ12区にある「TABLE(ターブル)」という店の、ブルーノ・ヴェルジュ氏だ。食のジャーナリストから星付きレストランのオーナーシェフへという、華麗なる転身である。
これで88回を数える連載は、「狐野扶実子が案内する最旬アドレス」の副題が示す通り、プロのグルマンによる食堂の紹介。「同業者の肥えた目」というフィルターを通すことで、ただのレストランガイドを超えた美食情報を得ることができる。
「ヴェルジュさんと初めて会ったのはおそらく20年くらい前のことで、ピエール・エルメさんのお宅での内うちの食事会でした」
冒頭から、日本でも知られるビッグネームの登場である。当時ヴェルジュ氏はまだジャーナリストで、取材先の一人であるエルメ氏とは「兄弟同然」の仲だったそうだ。
ここらで狐野さんの紹介が必要だろう。1993年に渡仏、パリの三ツ星店アルページュで修業しながら「出張料理人」として注目された。今はレストランや機内食のプロデュースを手がける彼女、ヴェルジュ氏の腕には以前から注目していたという。
「ご自宅での食事会に招いていただく機会もありましたが、彼自身料理がとても上手で、もしレストランを開いたら話題になること間違いなしと皆で話していたものです」
その見立ては現実となる。2013年に開業した店は昨年、ミシュランの星を獲得した。連載の取材で店を訪ねた狐野さんは、「彼が料理人で私がジャーナリストという以前とは逆の立場での、うれしい再会となりました」と記している。
キスされる食感
開店前に運び込まれる食材を観察した狐野さんは、「なにより素材」というヴェルジュ氏のポリシーを改めて確認する。「豊富な知識と人脈を生かして、これぞと思う生産者と直接取引しているのだそうで、最高級のものがとびきりフレッシュな状態で届きます」。
店は、どこに座っても厨房が間近に感じられる設計だという。
狐野さんが食したオマール海老は、40度Cの澄ましバターで火入れし、テーブルに運んだ時に人肌の37度になるよう計算されていた。シェフが料理に込めたのは...
〈海に足を浸しながら岩に座り、とれたてのオマールにかぶりつくイメージ〉
ラングスティーヌ(欧州アカザエビ=冨永注)への火入れも素晴らしかったそうだ。
〈このレベルの素材は非常にセンシュアル(官能的)ですらある。唇にキスされているような気さえするでしょう〉
「生のようでいて実は生ではない」という微妙な案配。作り手のコメントを日本語で正確に表現できるのは、フランス語を知る同業者ならではだろう。
さらに「黒トリュフと根セロリをミルフィーユのように仕立てた料理」には、食材の説明の後に「薄い部屋着で」との言葉が付されていたという。
「味わう前からイマジネーションをかきたてるタイトルで表現されているあたりにも彼一流のセンスが感じられます」。その種の技巧は、もの書き時代に鍛えたものだろう。
「旅+グルメ」のぜいたく
集英社の女性ファッション誌eclatは、50歳前後が主な読者層とされる。旅行にもグルメにも関心があるマダムたちにとって、パリの美食業界に通じた狐野さんの連載はど真ん中のストライクに違いない。しかも、筆者は読者と同世代の女性でもある。
私がパリに在勤していた2005年、狐野さんはあのフォションで女性初のエグゼクティヴ・シェフに就いた。フォション本店(マドレーヌ広場)の近くに住んでいたこともあり、珍しいお名前とともに、その動向はずっと気になっていた。
一料理人の枠を超えた、食全般のプロデューサーとして活躍する狐野さん。上記の回もそうだが、修業時代からの人脈が「取材者」としての彼女を支えていることは疑いない。料理のプロが、ペンでもトークでも、料理以外の表現手段を手にしたら怖いものなしだ。
料理が趣味だとあちこちで触れ回っている私だが、人様から金を取れるものを供する自信はさらさらない。これからも「見て聞いて、食べて、書く」のみである。
冨永 格