歌いたくなるダンスミュージック
バンドブームと入れ違うように訪れたのが"メガヒット"が量産される時代だった。
その方程式となったのが"ドラマ主題歌"である。270万枚の小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」や280万枚のCHAGE&ASKAの「SAY YES」。トレンディードラマと呼ばれた恋愛ドラマを支えていたのが70年代にニューミュージックと呼ばれた音楽の聞き手たちだ。
当時10代だった女性が、仕事や家庭を持ち、コンサートから足が遠のく中で、その頃はテレビに出なかったアーティストたちの曲が流れてくる。実力派シンガーソングライターの活躍。テレビに出ないままにメジャーになった浜田省吾の81年の曲「悲しみは雪のように」が主題歌になって200万枚も売れた。アルバムで日本で最初の200万枚ヒットとなったのが91年の松任谷由実のアルバム「天国のドア」だった。
昭和の実質的な最後の年、1988年はアナログ盤が全面的にCDに切り替わった年だ。
アナログからデジタル。その変化が平成を史上最も激変した時代にしている最大の要員だろう。コンピューターが音楽づくりの主役になった。人の手で演奏するのには熟練を要すると言われていたR&Bが"ニューR&B"として生まれ変わった。90年代半ばのダンスミュージックの隆盛は、その結果だった。最大の原動力、旗手となったのが、TK、小室哲哉。90年代の音楽シーンの最大ヒーローが彼だ。94年、TM NETWORKを終了したのと彼の名前をグループ名にしたTRFが爆発的に売れるのとはほぼ同時だ。TETSUYA KOMURO RAVE FACTORY。それまではアンダーグラウンドな音楽だったダンスミュージックが最前線の音楽になった。史上最速1000万枚突破が彼らだった。
なぜ小室哲哉の音楽があんなに受け入れられたのか。いくつもの状況的要因がある。
例えば、カラオケである。
マハラジャに代表されるディスコでの踊りとカラオケでの歌唱が一体になった。"歌いたくなるダンスミュージック"というのは、彼が初めてだろう。"歌いたい"と思わせた背景に歌の中の"女性像"がある。globeは女性がヴォーカルだった。篠原涼子、安室奈美恵、華原朋美。彼女たちが歌う「都会の女性の息遣い」への共感。95年4月、シングルチャートの1位から5位を独占した安室奈美恵、華原朋美、globe、dos、TRFという5組のヴォーカルは全て女性だった。"プロデューサーの時代"というのもここから始まった。
去年、発売になった、小室哲哉の作品を集めた「TETSUYA KOMURO ARCHIVES」はその証しだろう。「T」と「K」。それぞれ50曲ずつに加えた14曲、計114曲9枚組のBOXセットは平成の女性群像を見ているようだ。
平成最初の10年は、史上最もCDが売れた10年だ。98年にデビューした宇多田ヒカルの一枚目のアルバム「First Love」は、800万枚という天文学的な枚数を残している。98年、99年はCDの枚数だけでなくレコード会社の売り上げでも史上最多となった。
音楽業界が空前のバブルに沸く中で90年代が終わろうとしていた。
(タケ)