■『天才を生んだ孤独な少年期』(熊谷高幸著、新曜社)
先ごろ、地球温暖化を食い止めたいと、スウェーデン国会前で座り込みを行った高校生が話題になった。左派団体からノーベル平和賞に推薦されたというその少女は、アスペルガー症候群だという。一つのことにこだわる集中力の賜物か。
本書は、世に天才と呼ばれた人々の少年期を丁寧に調べ、そこに一つの共通項を見いだす。著者は長年、自閉症及び発達障害の研究に従事し、多くの家族を支援してきた専門家という。実践を伴う研究者であるだけに、読み手に配慮した丁寧な文章は分かりやすく説得力に富む。
自閉症スペクトラムと天才
章立ては、6人の天才の生涯を吟味する6章を、「天才と孤独」という第1章、「天才と現代」という第8章となる解説で挟む構成だ。
第1章は、天才がどのようにその力を蓄え、社会でどのように能力を発揮するかを最新の脳神経科学等を用いて検討する。いわば仮説の提示である。第2章以下は、この仮説に具体の人物の生育歴やその後の活躍を当てはめる。
提示される仮説は一定の前提知識を得つつ理解されるもので、ここで正確には紹介しきれないが、乱暴にまとめれば、以下のようになろう。
すなわち、自閉症スペクトラム(自閉症に加えて、自閉症よりも軽度の症状にあたるアスペルガー症候群を含む診断基準)やADHDの人々は、社会で一般に共有されている世界(共有世界)とは別の独自の世界(非共有世界)を持っており、天才とは、そうした非共有世界を育みつつ、社会との橋渡しができるように助力する者に出会うことで、非共有世界の成果物を共有世界に紹介できるようになった者、ということだ。
著者は、非共有世界を育むためには、外界からの刺激からある程度遮断される必要があるという。それこそが本書のタイトルである少年期の孤独な境遇である。
第2章以下の具体例の当てはめで、紹介される天才たちには、共通して少年期に孤独があったこと、その後理解者が現れていることが強調されている。
そして終章の第8章では、こうした天才たちが現代の教育システムで発現しうるか、という課題を提示する。若干の吟味を経て、著者は「結局、天才とは、いつかどこかで偶然生まれる人々ということになる」と結論づける。そして、歴史上の天才たちがこれまで多々現れた理由を、往時には「社会に多くのスキマがあったからである」とする。
現代の社会システムを念頭に、著者は続けて言う。
「現実には、すでに作られた世界が個人に及ぼす圧力は大きい。社会全体が個人に求める役割は限られており、その範囲内で生きて思考せよ、と命じられているかのようである」と。
著者は、そうした現代社会になおも天才が現れうるのは、人間の個人差の大きさの故であり、それは「天才ばかりでなく、障害をもつものもその中に含まれる」「その全体が人類を構成している」と言うのである。
非共有世界を持つことを肯定、許容
この第8章に至り、人権保障の積極的な意義を改めて考えさせられる。
著者の主張は、障碍者を包摂した人間社会全体にあって「スキマ」を許容することこそが、人類発展に不可欠な制度的保障だ、と理解できるからである。
この天才の分析によって、人権は天から与えられるものだというドグマディックな理解を超えて、人権保障や自由主義の重要性が科学的に解明されつつある、と受け止めるのは、さすがに行き過ぎであろうか。
身心が発達していく少年期、人はいろいろと悩むものだ。社会性をつけるということは折り合いをつけるということだろうが、自己を修正しつつ他者にすり合わせをする作業は、時に少年期の繊細な心を傷つける。
本書は、そうした悩みに丁寧に寄り添ってくれると感じる。非共有世界を持つことを肯定し、許容してくれるからである。
冒頭に紹介した北欧の少女は、他の学生にも影響を及ぼし、学生による温暖化防止キャンペーンのデモが生じているという。そしてメディアはこれを好意的に報じる。
評者は、学校を公然と欠席してデモを行うことは、あまり褒められたものではないと思っている。だが、そうした批判こそが社会から「スキマ」を奪っているのかも知れない、と思い直すのである。
そもそも授業中に居眠りもしていた自身の学生時代を思えば批判も失礼であった。確信犯的に欠席して行動を起こす方が、はるかに真面目な姿勢だろう。多少の欠課がその後の勉学や人生に与える悪影響は小さく、行動に伴う教訓は好影響を与える可能性の方が高いだろう。
言論の自由が保障された社会でも、その行使には勇気を要する。
少女の将来に幸多かれと祈りたい。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)