非共有世界を持つことを肯定、許容
この第8章に至り、人権保障の積極的な意義を改めて考えさせられる。
著者の主張は、障碍者を包摂した人間社会全体にあって「スキマ」を許容することこそが、人類発展に不可欠な制度的保障だ、と理解できるからである。
この天才の分析によって、人権は天から与えられるものだというドグマディックな理解を超えて、人権保障や自由主義の重要性が科学的に解明されつつある、と受け止めるのは、さすがに行き過ぎであろうか。
身心が発達していく少年期、人はいろいろと悩むものだ。社会性をつけるということは折り合いをつけるということだろうが、自己を修正しつつ他者にすり合わせをする作業は、時に少年期の繊細な心を傷つける。
本書は、そうした悩みに丁寧に寄り添ってくれると感じる。非共有世界を持つことを肯定し、許容してくれるからである。
冒頭に紹介した北欧の少女は、他の学生にも影響を及ぼし、学生による温暖化防止キャンペーンのデモが生じているという。そしてメディアはこれを好意的に報じる。
評者は、学校を公然と欠席してデモを行うことは、あまり褒められたものではないと思っている。だが、そうした批判こそが社会から「スキマ」を奪っているのかも知れない、と思い直すのである。
そもそも授業中に居眠りもしていた自身の学生時代を思えば批判も失礼であった。確信犯的に欠席して行動を起こす方が、はるかに真面目な姿勢だろう。多少の欠課がその後の勉学や人生に与える悪影響は小さく、行動に伴う教訓は好影響を与える可能性の方が高いだろう。
言論の自由が保障された社会でも、その行使には勇気を要する。
少女の将来に幸多かれと祈りたい。
酔漢(経済官庁・Ⅰ種)