週刊現代(3月30日号)の「気付くのが遅すぎて、」で、酒井順子さんが男女はもっと仲良くなれるはずだと力説している。
「『政治における男女平等』という新聞の特集で、全国で唯一、女性市議が一度も誕生したことがない鹿児島県垂水市議会の議長のインタビューが載っていました」
冒頭で酒井さんが触れたのは、国際女性デー(3月8日)にちなんだ朝日新聞の特集記事であろう。そこで、垂水市議会の池山節夫議長はこう語っている。
〈男尊女卑があるとか、封建的な土地柄とか指摘を受けますが、そんなことは絶対にない。たまたま誕生していないだけで、女性の進出を阻む風土があると言われるのは悲しい〉
酒井さんの文章に戻ろう。
「『恣意的ではない』ということを示す言葉が『たまたま』なのだと思います。しかしこの二十年間、一人も女性の候補者すら立っていないことの背景には、女性が政治に距離を置かざるを得ない何らかの事情があることは確かでしょう」
ただし、酒井さんはこの議長を論破しようとはしない。むしろ「今も、こんなに正直に生きている人がいるんだ!」とワクワクした、というのである。
たとえ本心は別にあっても、セクハラ認定されないよう発言に気を遣う男性が多い昨今、炎上も恐れず、「鹿児島はこの状態ですでに男女平等。男の市議だけでも全てに目が行き届いている」と言える議長は「清々しいほどに正直です」と。
「俺も鹿児島に行きたい」
「『女に色々言われることに、もう疲れた。俺も鹿児島に行きたい』と思う男性も、中にはいるかもしれません。しかし女が男に『色々言う』のは、ラブコールなのだと私は思うのです...男性に仕返しをしたいわけではない...上手くやっていきたいと思うが故の発言」
酒井さんによると、昭和中期の婦人雑誌には、夫の暴力を愛情表現と捉え、「どうして殴って下さらないの」と言う妻が出てくるそうだ。そして、職場でのセクハラや家庭内暴力に「やめて」と言えるようになった今は「本当によかった」「ずっと健全」と続く。
「平成が終わって次の時代になれば、男女の関係は日本でもさらに変わるものと思います。平成の三十年間、女性のあり方は、変わったようでいてあまり変わりませんでした...しかし平成は、大きな変化の前に力を溜めるための時代だったのではないか」
さらに、男女それぞれにしかできないことは残ると押さえたうえで...
「かつての日本に夫に殴られて喜ぶ妻がいたことも、女性が一人もいない市議会があったことも、いつかは笑い話になるでしょう。そうなった時に、男と女はもっと仲良くなることができるのではないかと、私は思うのです」
酒井さんは、長期連載の最終回となるこのエッセイを、こう結んでいる。
「男性向け雑誌において、女の腹蔵を十五年間披露し続けさせていただいたことに、心から感謝申し上げます」...ちなみに本作のタイトルは「最後に、ラブコール」である。
当コラムは「40対20」
ジェンダーに関わるテーマは、なにをどう書いても、尖った反応がありうる。新聞コラムからツイッターまで、持論を展開するなら脇を締め、覚悟を決めるべし。
酒井さんの文章には、しかし、そんな緊張感は見当たらない。おじさん読者への配慮はあっても、妙に媚びることなく、女性の思いを男の耳が受け止められる「音域」で易しく、優しくつづっている。フェミニズムの側からは物足りないだろうが、いい案配だと思う。アウェイに近い男性誌での連載が15年、705回も続いたのは「たまたま」ではありえない。そこには、絶妙なバランス感覚があったはずだ。
私は、社会的なチャンスは男女平等にせよという立場である。男女の機会がこれだけ不均衡な日本においては、クオータ制などを課しても、女性の社会参加を早急に高めるべきだと考える。酒井さんは同じ期待を、より柔らかく「男女はもっと仲良くなれる」と表現したのではないだろうか。
「コラム遊牧民」はこれが60回目。採り上げた雑誌コラムの筆者をカウントしたところ、男性40に対し女性が20だった。3分の1という女性比率は、国会議員の割合でいえば先進国中位といったところか。ちなみに日本(衆参両院)は14%弱である。
平成から令和に変わるのを機に、当コラムの人選も半々を目ざす...と言いたいところだが、性別に関係なく、これまで通り面白さと私の都合で選ばせていただく。
冨永 格