パリで「大人の音楽家」として歩み出す
ウィーンに登場した当時、ショパンが携えてきたのは、20歳そこそこで書いた二つのピアノ協奏曲でした。オーケストラをバックにピアノがソロを演奏する華やかな形式は、演奏家としても、作曲家としても、名前を売るのに好都合だったのです。そのため、この「ポロネーズ」もオーケストラ伴奏がつけられますが、あくまでピアノが得意楽器で、残念ながら管弦楽はあまり得意ではなかったショパンは、協奏曲でもオーケストラパートが雑であると非難を受けていますが、おそらく時間がない中で書かれたポロネーズの管弦楽パートは、さらに単調で伴奏に徹していて、あまり協奏的とはいえません。したがって、この曲にはピアノ独奏版も存在し、皮肉なことに「協奏曲版」とほとんど変わらない聴き映えがするために、現在では独奏曲としても良く演奏されます。
ショパンは、冷遇されたウィーンを後にして、父の祖国フランスに向かいました。道中のドイツ、ミュンヘンやシュトゥットガルトで開いた演奏会が好評で、ウィーンで自信を失いかけた彼は、再び音楽家としてやっていくことを決意します。しかし、祖国では、いよいよロシアが大軍を投入し、蜂起軍は完全鎮圧されてしまいます。
後ろ髪をひかれる思いで、ショパンはパリに到着しました。到着してみると、音楽の都ウィーン以上に華やかな都会で、実際に音楽の中心地も、ウィーンから産業革命真っただ中のパリに移動しつつありました。ショパンはこの地で、大人の音楽家としての確かな1歩を踏み出すことになります。
ウィーンで、管弦楽付きのポロネーズとして作ってあった曲に、ゆったりとしたノクターン(夜想曲)的な前半を付け加えることにしました。アンダンテ・スピアナート(ゆったりとしたテンポで、落ち着いて)とイタリア語で名付けられた前半を作曲し、後半を「華麗なる大ポロネーズ」と名付けて1つの曲にして、パリで1836年に出版されます。
学校を卒業し一人前の若手音楽家として、祖国を離れたショパンの、祖国への思いと青雲の志が感じられる、どこか悲しみをたたえつつ、なおかつ勇壮でもある名曲です。現在でもショパンのメインレパートリーとして演奏され、映画「戦場のピアニスト」では、第二次世界大戦の壮絶なワルシャワを生き延びたピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマン氏が戦後に演奏している、という設定で、映画のエンドロールにも使われました。
本田聖嗣