オノ・ヨーコ呼び、ロックコンサートを定着
海外での成功に意気揚々と帰国した彼らを待っていたのが「日本の現実」だった。フォークソングブームだ。72年。吉田拓郎の「結婚しようよ」が火をつけたシンガーソングライターのブーム。思うような評価を手にしないまま一年後に失意の中で解散してしまう。
内田裕也の「反フォーク感情」は、70年代の彼の支えでもあったに違いない。泉谷しげると「ロック対フォーク」という決闘のようなライブまで行った。申し込んだのは内田裕也の方だ。同じようにグループサウンズ出身でフォークとの橋渡しになったかまやつひろしは生前「ロックかフォークかはっきりしろと迫られた」と話していた。
三つめは、以前、この欄でも書いた74年の野外フェス、「郡山ワンステップフェスティバル」がある。福島県郡山市の陸上競技場を会場にした一週間に及ぶ野外イベントは、当時のロック系アーティストやバンドの大半が出演した。でも、もしオノ・ヨーコが参加しなかったら大手のメディアは見向きもしなかったはずだ。彼女の出演依頼に奔走したのも内田裕也だった。イベントは大赤字に終わり、地元のブティック主宰者は莫大な借金を負うことになってしまった。それでも、彼は、その後、後楽園球場などに舞台を移して「ワールドロック」を展開。日本のロックバンド、クリエーションを海外に送り出している。
四つめは日本でロックコンサートを定着させたいという彼の生涯を賭けたイベント、73年に端を発した「NEW YAER WORLD ROCK FESTIVAL」になる。「紅白歌合戦」へのアンチ。去年で46回。どんな人たちが出演してきたか、機会があれば、自分の目で確かめて頂ければと思う。その多彩さに驚かれることは間違いないだろう。
フラワー・トラベリン・バンド結成から50年目。今、若いバンドの中で英語で歌うことへの抵抗感はなくなっているようにも見える。ONE OK ROCKのように英語で歌いつつワールドツアーを展開しているバンドもいる。
日本にロックを定着させたい。
そのために戦い続けた半世紀あまり。
内田裕也は「日本のロックの父」だったのだと思う。
(タケ)