タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
CDにせよアナログ盤にせよ、パッケージと呼ばれる形で音楽を聴くこととダウンロードと言う形で聴く最大の違いは「曲順」ではないだろうか。もちろん、アルバムをダウンロードして聴くことも出来る。でも、シャッフル機能を使えば作り手の意図を無視したように順番を変えてしまう事も出来る。
このアルバムは曲順通りに聞いてこそ意味が伝わる。
2019年3月13日に発売になった鈴木雅之の2年8か月ぶりのアルバム「Funky Flag」を聴きながらそう思った。
直球で伝えたコンセプト
なぜ、そう思ったか。
それはアルバムの一曲目「Love Parade」、二曲目「愛のFunky Flag」と最後の11曲目「Sugar Pie Honey Bunch Marching Band」を聞けばわかる。
鈴木雅之のアカペラに始まる一曲目は、サンバのカーニバルのオープニングのようだ。タイトルも「Love Parade」である。山下達郎の「パレード」を連想する人も多いはずだ。二曲目の「愛のFunky Flag」にも「パレードは続く」という歌詞がある。そして、最後の「Sugar Pie Honey Bunch Marching Band」にも「ぼくはパレード」という言葉が出てくる。つまり、始まりと終わりが綺麗に揃っているという、物語の起承転結が整ったアルバムなのだ。
どんな物語なのか。
それは、タイトルにある。
つまり「Funky Flag」。
ファンクの旗、だ。
アメリカの音楽と人種とは切り離せない。そして、それは二つの流れに大別される。
一つは、カントリーミュージックに象徴される白人系音楽でもう一つがブルースやリズム&ブルース、ソウルミュージックに代表される黒人系の音楽だろう。乱暴に言ってしまえば、そうした流れの中で、ギターの早いカッティングを強調したビートの効いた踊れる音楽がファンクと呼ばれるスタイルとなった。
アルバムのタイトル「Funky Flag」は、それだけで、このアルバムがどんな音楽なのかが見えてくるだろう。
ただ、かつてのそうした音楽が一部のマニアックな人たちが愛好していた時代ではもうない。日本語のポップミュージックとして脈々とした系譜となって連なっている。鈴木雅之のデビュー曲となったシャネルズの「ランナウェイ」は、ドゥワップという黒人のストリートミュージックを茶の間に紹介する先駆的役割も果たしていた。音楽マニアも納得し誰にでも親しまれる。「Funky Flag」は、まさにそんな傑作アルバムになった。
鈴木雅之は、筆者が担当しているFM NACK5「J-POP TALKIN'」のインタビューでこう言った。
「タイトル曲の『愛のFunky Flag』は、最初に取り掛かった曲ですね。プロデュースを頼んだ布袋と、作詞の森雪之丞さんにコンセプトはパレードにしたい、応援歌のようなアルバムにしたいと直球で伝えました。年齢を重ねれば重ねるほど、出会いと別れも増えてくる。体調的に優れないことも多い。でも、愛の旗を掲げながら勇気をもって人生の道を行進しよう、それは最初からありました」
9人のプロデューサーと
アルバムにはプロデューサーが9人参加している。最初に依頼したのがギタリストの布袋寅泰。彼は、鈴木雅之の86年のソロデビューアルバム「mother of pearl」のギターを弾いている。2016年に還暦を迎えた鈴木雅之が、その後の一枚目のアルバムで真っ先にプロデュースを依頼したのが彼だった。
「愛のFunky Flag」だけではない、どの曲にもそうした「縁」というストーリーが織り込まれていた。
「今までの鈴木雅之のラブソングの作り方は、シンガーソングライターに書いてもらった曲を自分色にどう染め上げようか、というやり方。今回は曲ごとにプロデューサーを立てて、その色に染まろうという大きな違いがありますね」
起用されたのは、小西康陽、THE ALFEEの高見沢俊彦、富田恵一、ギタリストの鳥山雄司、NONA REEVESの西寺郷太、萩原健太、布袋寅泰、本間昭光、松尾潔という9人。それぞれのジャンルでの第一人者ばかりが「Funky Flag」という旗の下で「鈴木雅之像」を形にしている。
例えば、すでにアニメ主題歌でも流れている「ラブ・ドラマティック」のプロデュースは「いきものがかり」でおなじみの本間昭光。作詞作曲はいきものがかりの水野良樹。鈴木雅之とは同じレコード会社での先輩後輩という「縁」がある。J-POPの申し子のような水野良樹が書いているのは「ラブソングの王様」そのもののようなセクシーなラブソングだ。
一枚のアルバムに織り込まれた音楽の流れ。10曲目の「ぼくについておいで」は、2012年になくなったプロデューサー・シンガーソングライター、佐藤博の未発表曲だ。残された関係者が「歌って欲しい」と届けてきた。それもアルバム制作の話を知らずにだ。佐藤博は、鈴木雅之の二枚目のアルバムを山下達郎とともに手掛けていた。大瀧詠一のソロアルバム「ナイアガラ・ムーン」にも参加していた「ナイアガラ・ファミリー」だ。8曲目の「どんすた」をプロデュースした萩原健太は、大瀧詠一が最も信頼していた音楽評論家でもある。都会的なポップスのアレンジャーとして評価の高い、富田恵一が影響を受けたのが佐藤博だったという。
そうやって一枚のアルバムにいくつもの「縁」となって連なった音楽の流れの源流は、70年代の大瀧詠一や山下達郎に遡る。アマチュア時代のシャネルズをバックアップしていたが大瀧詠一と山下達郎だった。
彼が言う「縁」を「必然性」と置き換えてもいいかもしれない。なぜ、この人と一緒に音楽をやるのか。なぜ、この人に依頼したのか。プリンスを思わせる7曲目「BAZOOKA」を書いた40代の西寺郷太は、鈴木雅之の熱烈なファンだった。THE ALFEEの高見沢俊彦とは「GS好き」という共通点があった。鈴木雅之は、THE ALFEEについて「芸能界という場にいながら音楽的でもあるという俺たちとの共通点」をあげた。どの曲にもストーリーがある。そこに「旗」が立っている。
旗の見えない時代だ。
争いを鼓舞するためではない音楽の旗。
彼はそれを「愛のFunky Flag」と名付けた。
(タケ)