■『原発事故と「食」~市場・コミュニケーション・差別』(五十嵐泰正著、中公新書)
毎年恒例の「新書大賞2019」が発表され、「中央公論」3月号に特集記事が掲載された。ベスト20には入らなかったが、優れた記者・ノンフィクションライターとして知られる石戸諭氏がイチオシし、また、科学技術社会論を専攻し、朝日新聞の書評委員も務めた佐倉統・東東京大学大学院情報学環教授が3番目にあげたのが、中公新書『原発事故と「食」~市場・コミュニケーション・差別』(五十嵐泰正著 2018年2月)である。
福島産でもコメ、モモ、カツオの置かれた事情は異なる
石戸氏は、本書を選んだ理由について、「原発事故後に、『福島県産』の食をめぐって起きた分断をどう乗り越えるか。緻密なフィールドワークと実証的なデータ分析から探っていく好著。福島で起きていることは、この社会で起きている『分断』を考えることにつながる。真正面から複雑な問題に向き合い、様々な価値観に基づく『経験を開き直すこと』の意義を語る姿勢も評価したい」と述べる。
著者の五十嵐泰正・筑波大学大学院人文社会系准教授は、専門は都市社会学・国際移動論であるが、この学際的な課題に果敢に取り組んだ。
本書前半では、「福島県産」といわれる様々な農作物・海産物について、個々の産品ごとについてのマーケット・消費者との関係を丁寧に分析し、それぞれごとの対応策をとることの重要性を指摘する。きゅうり、インゲン、コメ、モモ、カツオなどが置かれた事情はそれぞれで大きく違っているという。行政はこのようなきめ細かな対応はまったく不得手であるが、著者の冷静な分析を踏まえ、広く知見を得て、生産者など民間と連携し、試行錯誤しながら進んでいくしかないだろう。
本書の後半では、リスクコミュニケーションのあり方、分断をいかに乗り越えられるかについて考察を深める。著者から本書186ページで唯一具体的名前をもって「デマ」と指弾されている「言説」を述べた学者が、何の総括もなく、最近大手メディアに登場しているのをみると、まさしく事故の「風化」を悲しく思わざるを得ない。
終章で、著者は、「本書の執筆は、あらためて首都圏住民の日常が、いかに福島に支えられてきたのかを再確認する道程であった。そして、2011年3月11日直後にふと浮かんだある思いを、いま振り返っている。それは、大震災と原発事故という未曽有の悲劇を、都市の日常がいかに東北に支えられて来たのか都市住民が再認識し、東京と東北、都市と農村、消費者と生産者との創造的な関係構築の契機としなければならないのではないか、という思いだ」とするが、「残念ながら原発の是非と放射線リスク判断を軸とした分断線があらわになり、その分断線の両側の陣営でいがみあうような社会に進んでしまった」という。著者は、「科学的リスク判断」、「原発事故の責任追及」、「一次産業を含めた復興」、「エネルギー政策」というような「問題の切り分け」を提起し、問題解決を前に進めようという。
メディアの創りだす「疑似環境」が現実の環境とかい離
評者は、著者が提案する切り分けをできるだけ可能とし、問題解決に至る過程では、メディアの役割が重要であることをあらためて指摘しておきたい。
「メディアと政治(改訂版)」(蒲島郁夫他著 有斐閣 2010年)の指摘を借りれば、「現代社会で、メディアはわれわれに代わってわれわれの現実を定義(構成)するという役割を果たしており、メディアはわれわれの現実認識に大きくかかわっている。さらには、社会のメンバーの多少とも共通した現実認識を持たせることで、現代の大規模社会においてもメンバーの相互作用が円滑に行われるための土台を提供している」とし、われわれ人間の行動は、メディアが創りだす「疑似環境」というものに対する反応として現れるという。ただし、行動自体は、「疑似環境」ではなく、現実の環境に対してなされるという点に注意が必要だと指摘する。
原発事故に関する報道については、メディアの創りだすこの「疑似環境」が、現実の環境と大きくかい離してしまい、人間の行動に非合理性を帯びさせてしまっている。本書でも、例えば、福島第一原発事故による被曝(ばく)線量の低さを結論づけた日本学術会議の報告書(「子どもの放射線被ばくの影響と今後の課題」(2017年9月)が、福島の地方紙以外ではほとんど報道されていないことを指摘する。
8回目の3.11を迎え、この8年の間に様々に異なってしまった者同士に、共有可能なプラットフォームをあらためて作ろうと苦闘する著者の真摯な取り組みを是非ひもといてほしい。
経済官庁 AK