アジアまで広がるロシアを除くと欧州最大の面積の国は、フランスです。フランスは様々な隣国と接していますが、そのうち、大国といえるのが、ドイツ・イタリア・スペインです。ドイツ・イタリアはクラシック音楽の先進国で、フランスも、それらの国からの影響、時には反発の精神でもって多くを学びましたが、ことスペインに関しては、残念ながら、音楽ではフランスのほうが圧倒的に先進国で、大きく後れを取りました。バロック時代から、スペインは隣国フランスと同じように当時の先進国イタリアから音楽家を招いていましたが、音楽の伝統は定着せず、清教徒革命の影響でロマン派の時代の音楽がすっぽり抜け落ちたといってよい英国と同じように、スペインのクラシック音楽が再び興隆をみせるのは、近代、19世紀後半になってからです。
今日は、そんなスペインの近代の作曲家、マヌエル・デ・ファリャの「7つのスペイン民謡」を取り上げましょう。
ドビュッシーから才能を称賛される
1876年、南部アンダルシア地方の港町、カディスに生まれたファリャは、地元で音楽を学んだあと、首都マドリードの音楽院へ入学します。「スペイン音楽」復活の立役者、フィリップ・ペドレルなどに師事し、作曲・ピアノを学びます。自身の出身地が、外国人の我々が「スペインらしい」と感じるフラメンコの地、南部アンダルシア地方だったということもあり、彼は早くから地元スペイン民族音楽の伝統の重要性に気づいていましたが、マドリードで作曲のコンクールに入賞するもまったく評価されず、彼はピアニストとして、隣の大国フランスの首都パリに仕事を得て、進出するのです。
当時のフランスのパリは、こちらも「フランス音楽」という近代のアイデンティティーが確立されてきた時期で、ドビュッシー、デュカス、ラヴェルといった、歴史に名を遺す作曲家が綺羅(きら)星のごとく集まっていました。そしてその中に、スペイン人のピアニスト、リッカルド・ヴィニュスや、ピアニストとしても優秀だった作曲家アルベニスなどもおり、スペイン出身者がチャンスをつかむ場ともなっていたのです。彼は、紹介を受けて親しくこれらの音楽家たちと交わり、特に、スペインのエキゾチシズムに敏感だったドビュッシーからは、その才能を称賛されました。
母国スペインで、さっぱり評価されなかったオペラ「はかなき人生」もパリで評判となり、これからさらに活躍を・・・というときに、第一次世界大戦が勃発して、フランスは国内が戦場となり、ファリャは帰国を余儀なくされます。
「大事なのはメロディーをコピーすることではない」
隣の「先進国」フランスで評価されたファリャを母国は喝采で迎えました。パリ滞在中から書き始められていたピアノ協奏曲的管弦楽曲「スペインの庭の夜」や、バレエ音楽「恋は魔術師」、パリを席巻していたディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシアバレエ団)から委嘱を受けた同じくバレエ音楽「三角帽子」など、この時期のファリャは代表曲を次々と生み出しています。
大作の作曲が続く中、スペインに凱旋したファリャが、マドリードの文芸協会アテネオ・デ・マドリードで書き上げた曲が「7つのスペイン民謡」です。もとは、パリ滞在中に、オペラコミック座で活躍するスペイン人歌手、ルイサ・ヴェラの委嘱を受けたものでした。ファリャは、フラメンコのふるさと、アンダルシア地方の出身でしたが、曲に採用した民謡は、スペイン全土を意識したもので、北部アストゥリア地方の「アストゥリアーナ」、南部ムルシア地方の「セギディーヤ」、北東部アラゴン地方の「ホタ」など、幅広く、素材を各地に求めました。彼は、「大事なのはメロディーをコピーすることではない、その精神を理解することなのだ。そして、民謡は旋律だけで歌われることも多いが、ハーモニーも、それにもまして重要なのだ」ということを言い残しています。故郷スペインを愛したファリャによる、スペイン民謡のエッセンス、ともいうべき、曲集なのです。
オリジナルの編成は、歌とピアノという「クラシック歌曲」のスタイルで書かれていますが、スペインの香りが濃厚に漂うこの曲は様々なアレンジ・・たとえば最も「スペインらしい楽器」であるギターでの伴奏など・・・・で親しまれており、「スペイン語で歌われる歌曲の代表曲」とまで言われるようになったのです。
本田聖嗣