なぜ「バッハの名曲」と思われたのか
どうして、長い間大バッハの作品とされてきたかというと、この作品が、彼が2番目の妻の音楽練習のために贈った「アンナ・マグダレーナの音楽帖」という曲集に収められていたからです。そのころは、現代のように「ピアノ練習曲集」などという便利なものは出版されていませんでしたから、バッハ家など音楽家の家系では、年長者が年少者のために、学習に最適とされる作品を選んだアンソロジーを編み、それをもとにレッスンを進めていたからなのです。J.S.バッハは、子たくさんでしたから、子供のためにも音楽帖を編んでいます。
音楽帖は、主に、その当人・・・この場合は大バッハ本人・・・の作品を、あちこちから集めてきたものなのですが、まれに、まったく他人の作品も混ぜられていたのでした。バッハが、他人の作曲でも「教育的にこれは良い」と認めた作品、ということですね。現在のドイツ中北部から全く出たことのなかったバッハですが、彼は楽譜を取り寄せて、フランスやイタリアのスタイルにも精通していましたから、バッハ自身の「勉強道具」でもあったわけです。
著作権、という感覚がない時代でしたし、「家庭内での私的使用目的」がメインだったわけですから、バッハは悪気なく、ペツォールトの作品を(おそらく無断で)、自分の音楽帖に転載してしまったわけですが、彼の死後、彼自身が大変高く評価され、その作品がくまなく出版されて世の中に知られるようになり、ペツォールト作品は、ヨハン・セバスティアン・バッハのメヌエットとして、知られるようになってしまったのです。ちなみに、ペツォールト作品は、同じくバッハ作として長年知られた、この曲とカップリングのト短調のメヌエットの作品のほかは、数曲が伝わっているだけで、ほとんど残っていません。
本田聖嗣