原曲を作った人の想像を超えたドラマティックなもの
瀬尾一三は1947年生まれ。神戸の大学時代に音楽活動を始め、69年にはフォークグループ・愚としてデビュー、関西のフォークシーンでは知られた存在だった。70年代に入りアルファミュージックで作曲家・村井邦彦の元で修行する形でアレンジャーになった。70年代に活動していたシンガーソングライターで彼の世話になっていない人やグループを探す方が難しい。まだ数少なかったロサンジェルスでのレコーディングを恒常的に行ったことも先駆的だった。「時代を創った名曲たち~瀬尾一三作品集 SUPER digest」「2」の二作は、88年に中島みゆきと出会うまでの名曲たちがほとんどである。彼女を通して彼のことを知った聞き手にとっては驚き以外の何物でもないかもしれない。
彼が新しい歴史のパイオニアだったのはアレンジャーからプロデューサーになっていったことだろう。もちろん、それまでも歌謡曲やアイドルの世界にもアレンジャーは存在した。瀬尾一三がそうした人たちと一線を引いていたのは歌謡曲などの職業作家たちのアレンジに対して消極的だったことだろう。80年代のスーパーアイドルも手掛けてはいるものの、アルバムには選ばれていない。彼はなぜシンガーソングライターと組んできたのかという質問にこう答えていた。
「アイドルの曲もたくさんやりました。でも、求められているのが結果としての編曲。演奏をレコーディングしている時には来ない歌手も多い。曲は関わったのに本人に会ったことがない。単なる編曲と言う歯車になっただけのような気がして一緒に作った感じがしないんです。シンガーソングライターは自分で作ってますから、ここはこうしよう、この方がいいんじゃないかという話が出来る。それがプロデュースということにつながってます」
その曲がどんな思いで作られたのか、そんな話をしながら情景やイメージを考えながら共に作り上げる。原曲の世界を作った人の想像を超えたドラマティックなものにする。それが瀬尾一三の音楽マジックにつながっている。
彼以前のプロデューサーはレコード会社の管理職だったり事務所の社長など、組織を持った人が主でインディペンデントのクリエーターではなかった。彼の後に登場したプロデューサーは、ピアニストだったりベーシストだったり自分もミュージシャンだった人が多い。彼らが手掛けた曲は、その人の色が反映されていることが多い。
でも、瀬尾一三には、そうした"プロデューサーの色"が見えない。あくまでもその曲の世界として成り立っている。
「それは僕がミュージシャンとしてやってこなかったからですね。全体を作り上げられる。どんな楽器、どんなジャンルの音楽でも自分のイメージに出来ますから」
中島みゆきの「夜会」は、2013年から新たに「夜会工場」という新しいスタイルを登場させた。「夜会」で上演された曲の名場面・名曲集というダイジェストコンサートである。2017年から18年にかけての「夜会工場2」ではステージ上のミュージシャンの前で立ちっぱなしでタクトを振る瀬尾一三の姿があった。もはや中島みゆきの音楽活動は彼なしに考えられなくなっているように見える。
今年は音楽活動50周年。
まさに"生きた伝説"である――。
(タケ)