昨年(2018年)は、第一次世界大戦終結100周年だったわけですが、欧州を大きく変えてしまった未曽有の大戦の終結した1918年は、現在も存在する国、例えばポーランドが独立した年でもありました。正確に言えば、独立を回復した・・となりますが、120年以上の長きにわたって他国によって分割占領されていたポーランドが、新生ポーランド共和国として、再独立を果たしたのです。翌1919年に、日本と新生ポーランドは国交を樹立し、今年が100周年ということになります。
19歳でデビューし「時代の寵児」に
ポーランドの作曲家、となると、なんといっても代表は、フレデリック・ショパンということになります。確かに彼はポーランド生まれではあるものの、父親はフランス人だし、40年に満たないその生涯で、ほぼ半分をフランスで暮らしたわけですから、ポーランド生まれのフランス人、として扱ってもいいのではないか・・・とフランスびいきの私は時々考えてしまいます。A.オネゲルなど、フランス生まれのスイス人、として扱われている他の例もあるからです。
国民国家が定着する以前の欧州は、まことに流動的でもありました。今日登場する作曲家は、「現在のポーランド地域の生まれ」ではありますが、彼の生誕時には、そこはドイツ系のプロイセン王国でしたし、亡くなったのはフランス・パリでした。そして、なにより、彼はユダヤ教を熱心に信仰するユダヤ人でもありました。こうなると「国籍」ってなんだろう?と考えてしまいます。名前は、モーリツ・モシュコフスキといいます。
ピアノを習ったことのある人ならば、モシュコフスキの「15のヴィルトオーゾのための練習曲」で、彼の作品に接したことがあると思いますが、今日取り上げるのは、彼の華やかなピアノ独奏曲、「スペイン奇想曲(カプリス・エスパニョール)」です。
現在はポーランド西部の都市ヴロツワフとなった、当時プロイセンのブレスラウに1853年生まれたモシュコフスキは、家庭で音楽教育を受けた後、ドイツのドレスデン、そしてベルリンで専門教育を受けます。ピアノだけでなく、ヴァイオリンや作曲も学び、そのどれもが優秀だったのですが、19歳の時ピアニストとしてデビューし、評判となります。2年後には、自作のピアノ協奏曲・・長年行方不明となっていた自筆譜は、現在パリ国立図書館に所蔵されています・・・を、若き彼の才能を認めた大ピアニストにして作曲家のフランツ・リストによってオーケストラ部分をピアノで伴奏してもらい、演奏する、という栄誉にも恵まれました。同時に、ベルリンの音楽学校の教員として招かれます。
そこからは、ベルリンで教鞭をとりつつ、欧州中をピアニストや指揮者として演奏して回り、同時に有名作曲家としての認知も進みました。まさに、時代の寵児となったのです。
10年後から腕の不調に悩まされ、ピアニストとしての活躍は難しくなりましたが、指揮者として、作曲家として、そして何より、教育者としての活動を活発に行いました。
1897年、パリに移り住んだモシュコフスキは、ドイツにもフランスにもたくさんの弟子を持ち、19世紀後半のピアノの重要な伝統の一部を担ったのです。