今日はロシア出身で、フランスで華々しくデビューし、楽壇に衝撃を与えたイーゴリ・ストラヴィンスキーが、スイスの地で書いた、米国の新しい影響がみられるピアノの小さな曲を取り上げます。「ピアノ・ラグ・ミュージック」というタイトルの、3分ほどの曲です。
祖国ロシアを離れて困窮生活、音楽仲間に救われる
ロシア時代には、まだ若手で無名だったストラヴィンスキーは、オフ・シーズンにパリで公演を行っていたバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の名プロデューサー、セルゲイ・ディアギレフに見いだされ、「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」というバレエ団のために書いた三部作で、音楽先進都市パリの聴衆に衝撃を与え、一挙に注目される作曲家となります。ロシアで、管弦楽法の大家リムスキー・コルサコフに師事して学んだ作曲の実力が、プロデューサーのおかげで、他国で一挙に花開いたのです。
しかし、1910年代の前半に彼を世界の舞台に押し上げたパリを首都とするフランスは、直後の1914年から第一次世界大戦に突入します。国家総動員となった大戦は、フランスの爛熟した文化にも大打撃を与え、ストラヴィンスキーは、戦火の影響を避けるようにスイスに移住します。
第一次大戦は1918年に終結しますが、祖国ロシアは、革命の波に襲われていました。1917年の二月革命と十月革命によって、ロシアはソヴィエト連邦となり、彼がロシアに所有していた土地なども没収され、故郷からの収入が一切途絶えてしまったのです。
遠く異国で経済的苦境に陥ったストラヴィンスキーに手を差し伸べたのは、音楽仲間でした。名ピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインは、彼に少なくないお金を送ったのです。ストラヴィンスキーの窮状をルービンシュタインに伝えたのは、指揮者のエルネスト・アンセルメなどでした。
米国の音楽シーンを彩った「ラグタイム」
そのアンセルメから、ストラヴィンスキーは、新大陸の米国の音楽のことを聞いていました。19世紀後半に、米国の黒人音楽にルーツを持つといわれるピアノ音楽・・・「ラグタイム」がブームとなり、代表作「エンターティナー」などで知られるスコット・ジョプリンなどによって、大量に「ラグタイム」は作曲されたのです。ジャズの前身の一つ、といわれるラグタイムは、不思議なことに、第一次大戦まででその最盛期を終え、以後はぱったりと顧みられなくなりますが、シンコペーションと呼ばれる特徴的なリズムを持った「ラグタイム」は、フランスのベル・エポックの時期と重なるように、米国の音楽シーンを彩ったのです。
ストラヴィンスキーは、アンセルメによってもたらされたラグタイムの楽譜や、新興国米国のミンストレル・ショーなどが流行していたパリで、来仏していた楽団の演奏にも何回か接していました。そして、ピアニスト、ルービンシュタインへの返礼として、彼は「ピアノ・ラグ・ミュージック」を作曲することになるのです。
完成したのは1919年、今からちょうど100年前のことでした。初演は別のピアニストによってスイスで行われましたが、のちに米国にわたることになるストラヴィンスキーが、祖国ロシアと決別したこの時期に、まだ見ぬ「米国」の音楽に刺激を受けて作曲した、異色の、どこかユーモラスな作品です。
本田聖嗣