pen(1月1-15日号)の「そして怪物たちは旅立った。」の最終回で、島地勝彦さんが開高健(1930-89)について記している。各界の魅力的な大物たちを、故人に語りかける形式で偲ぶこの連載。100話目となるフィナーレには、やはりというべきか、公私にわたり濃密に交わった作家をもってきた。早いもので、開高が58歳で没して今年で30年である。
「開高健先生。あなたは、天下の文豪になるための条件として、悪妻をもたなければならないと思い込んでいたのではないですか」
意表を突く書き出しには、いささか説明が必要だろう。開高夫人、詩人の牧羊子(1923-2000)は、夫の親友だった谷沢永一が「稀代の悪妻」としたことで知られる。
「彼女が悪妻と呼ばれる理由はさまざまですが、あなたに金銭的な不自由を強いたことは有名です。あなたはよく、『わしの小遣いは月5万円や』と、笑いながら嘆いていましたね」。島地さんはしかし、羊子夫人にも優しい。
「それでは、あなたが得ていたはずの莫大な印税は、どこへ消えたのか。羊子夫人は、北鎌倉の名刹・円覚寺塔頭松嶺院の見晴らしのいいところに、あなたの墓を構えるため、財を投じたのではないか---これがわたしの推測です。いま、その墓石は、まるであなたが昼寝をしているかのように、優雅に横たわっているのです」
「死んで私のものに」
開高の通夜のこと、無宗教の故人らしくモーツァルトが流れる会場での、夫人からの短い言葉に島地さんは触れる。娘(1994年没)と並んで参列者に挨拶していた夫人は、「島地さん、気障な相棒...」と声をかけた。筆者は、狼のように号泣したという。
四十九日が過ぎた頃、島地さんは主なき開高邸を訪ねている。昼間から水割りをあおっていた夫人はこう言い放ったそうだ。
〈島地さん、開高は死んで、やっとわたしのモノになりました〉
「この時は、あなたの奥方に、才気煥発な詩人としての凄みを感じたものです...第一級の悪妻であったことは疑いようがありません」
開高夫妻の確執は、どうかすると取っ組み合いの喧嘩にまで発展したという。島地さんによると、開高が夫人にヘッドロックをかませたところ、妻は夫のふくよかな腹にかみつきながら「この殺人豚!」となじったらしい。
「あなたは、この逸話をわたしに話しながら、『さすがは詩人や。わしはその言葉でガクッと力が抜けたんや』と笑っていたものでした」
ちなみに夫人は開高の死後10年、いまで言う「孤独死」の状態で見つかった。
「開高先生、縁というのは不思議なものですね。生涯の伴侶と馬が合わず、不幸な顛末を迎えることもあれば、自分の意図しないところで素晴らしいめぐり合わせを生むこともあります」
豪胆と繊細を立体的に
エッセイストの島地さんは、集英社の編集者(長)として「週刊プレイボーイ」などでひと時代を築いた名出版人だ。10歳上の開高とは、私も愛読した「酒場でジョーク十番勝負」なる共著があり、仕事を超えた、師弟のような間柄だった。
何度も書いているはずの友人を、作品として偲ぶのは骨の折れる仕事である。「とっておきの話」は出尽くし、秘話の類は残っていない。そこで島地さんは、夫人という「媒体」を置くことで、開高の豪胆と繊細を立体的に描き出す。バラバラに見える逸話や体験談が、読み進めるにつれて早世の作家にフォーカスしていく。
サントリー時代に仕事で知り合った夫人にすれば、売れてからの開高は7歳下の夫というより、「社会的存在」だったに違いない。「死んでわたしのモノになった」というむき出しの告白は、生前の因縁をも超えて鬼気迫るものがある。
島地さんは最後の一段落を、連載を終えるにあたっての「挨拶」に割いている。
「突然この世に呼び戻され、高貴なエピソードから下世話なジョークまで、ペンの走るままに書きたてられた怪物たち。身勝手なこのわたしを笑って許してくれた、すべての敬愛する怪物たちへ。合掌」。全100回をまとめて読みたいので、書籍化をお願いしたい。
ちなみに最終回のタイトルは〈縁に泣き縁に笑った開高健は、昇天して"皆のモノ"になった〉。「皆」とは、私たち一般読者のことであろう。夫人の言葉をひねったこのセンス、輝きを失わない作品群へのトリビュートも兼ねて、なかなかのものだ。
冨永 格