自分のなかにいる二種類の生き物

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■『ファスト&スロー』(ダニエル・カーネマン著、早川書房)

   『ファスト&スロー』(原著2011年、邦訳2012年)は、心理学者でありながら、行動経済学を開拓した功績で2002年ノーベル経済学賞を受賞したカーネマンによる著作である。

   本書の表題が示唆するとおり、脳には、情報処理速度の速い軽いシステム(システム1)と、情報処理速度の遅い重いシステム(システム2)があるという。このような人間の脳の基本スペックを頭におくことで、単純な合理的経済人の枠組みからはアノーマリー(異常)としてしか処理するほかなかった人間行動の細やかな理解に大きな貢献を果たしたのである。

脳のふたつのシステム

   認知的に重い作業を伴うシステム2を常に動員することは、限られた脳の容量からは無理がある。システム2は処理速度が遅いため、迅速に環境変化に対応することができない。他方、直感的な情報処理によるシステム1では、素早い対応が可能である。進化の過程で、我々は生存に適したシステム1を持つようになってきたから、通常の環境では、システム1に任せることでも、まずまずの成果を得ることができる。しかしながら、システム1はあくまでも、簡便な間に合わせのシステムに過ぎず、その判断にはバイアスがかかる。カーネマンらは、実験を通じて、システム1の判断に系統的に存在するバイアスを統計的に検出している。自ら作り出した社会的なものを含む複雑な課題に対処する必要のあるヒトは、システム1の処理をシステム2が監視・訂正するという機能を発達させてきた。

未来とは人間にとってどのようなものか

   本書でカーネマンは山のようなバイアスの例を、系統立てて説明している。そのいずれも興味深いものである。ヒトがどのような間に合わせのシステムを身につけてきたのか、その詳細が明かされるにつれ、個人的経験に照らして納得するとともに、進化の過程で編み出された成果物の驚異に目を開かされる。

   バイアスの全体像については本書に委ねるとして、ここでは、未来にかかわる意思決定、とりわけ不確実性を人間がどのように処理しているかについて触れておきたい。カーネマンによると、人間にとっては、100%と95%、0%と5%の間には、単に確率の目盛り5%分以上の大きな違いがあるという。重大な手術が失敗する確率が5%でもあれば、我々は心配でいたたまれなくなり、5%の失敗の可能性をなくすためなら、いくらでも追加費用を払ってもよい気持ちになる。カーネマンによると、システム1は確率を扱うのが苦手で、期待効用理論の想定するような振る舞いはとても期待できないようである。

   我々人間にとって未来とは、なんとも理解のむつかしい難物である。未来とは、現在を生きる我々だけで決めるものではなく、我々の決定を引き継ぐ未来の人々によってもその姿を変えるものである。我々の決定のなかには、たやすく時間の経過に紛れて、その影響が消えてしまうものがあれば、未来の人々によっても容易には撤回できない性質を持つ決定がある。津波防潮堤の高さの決定や原子力発電所の建設の決定といった類の課題の例である。確率の理解ができないという認知上の欠陥を抱えた、我々人間にとって、このような課題を適切に処理すること、特に多くの一般市民の理解を得る必要のある公共的決定として処理することは、いささか骨の折れる作業となるであろう。

経済官庁 Repugnant Conclusion

【霞ヶ関官僚が読む本】現役の霞ヶ関官僚幹部らが交代で「本や資料をどう読むか」「読書を仕事にどう生かすのか」などを綴るひと味変わった書評コラムです。

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